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怒りの分解あれこれ

怒りをあらわにするコミュニケーションを行う友人がいる。その友人曰く、怒りをあらわすことは普通のコミュニケーションで、だからカジュアルに「ハァ?!」とか言うらしい。雨降って地固まるじゃないが、そのような怒りのぶつけあいの後で人と仲良くなっていくらしい。
そういう人たちもいるのか、と思うし、私はわりとそうじゃないので、シンプルに「怖…」と思っている。

私:「怒ってるってだけで不愉快だし聞きたくなくなるから、私はそれされたら嫌だわ…」
友人:「へえ…そうすか…」

怒りを100%でぶつけられるって殴られてるのと一緒なので…痛みを体が覚えてもう嫌ですってなっちゃう。
なのでされたら嫌だけど、その友人の怒りコミュニケーションの在り方は精神が刃牙というか、清々しくていいなとも思っている。


一方、私は怒りというものは、たいていの場合それを抱く自身に問題があると考えている(外部からやってくる理不尽な出来事もあるがそれは置いておくこととする)だから、怒りを抱いたときに無防備に100%でぶちぎれたりすることは、こちらの不手際の露呈になる可能性が極めて高いと考える。

誰か「(ムカつく言葉)」
私「(ハア???)……(一呼吸)(いやでもまあ図星だからムカついてんのか…)(にしたってお前にそんなことずけずけ言われる謂れはないのでは?)はは……そうですかね?(わからん…一回頭冷やそう)」
結構理想化してるが心の中はこんな具合である。


「人が何に怒るのかを知るとその人のことが良くわかる」なんていう言説があるが、あれはおそらく「自分がやっちゃいけないと思っていることを(目の前で簡単に)やられると怒る」のが人間だからなのだと思う。
それに基づいて例を示すと、「自分の気持ちを分かってほしかった」という感情が元にある怒り(人間関係の怒りって突き詰めるていくとたいていこれだと思うが)は、「自分が理解してほしかっただけか、わがままじゃん」と怒りを収めることができる。

しかし大っぴらに怒りを抱く例もあり、それは「自分の悪いところを顧みずに起きたことを他人のせいにする」である。
こういう人がたまにいてめちゃくちゃ嫌いである。これには悪口言っていいとGOサインを出している自分を感じている。
あと「自分は動かずに他人にいろいろとやらせようとする」も結構嫌いである。自分でやれないことを何故人にしてもらおうとする?せめて自分でやれないことを他者に押し付けている自身を自覚するべき、と思う。(自覚があれば発する言葉はおのずと変わっていくから)だって行動することは大変な体力と精神力と時間消費を伴うことだと知っているから。

これらの例から分かるのは、それをやっている人間を見たり話を聞いたりして怒っている時「それはやっちゃいけないことだよな?」というマイルールを人に押し付けている自分である。脳に多分、マイルールを世界の理だと誤認する機能が付いているのだと思う。
こんな風に怒りというのは私の場合たいてい自分の不出来の表出である。
だから怒る前に一拍置いて考えようねって思って最近は生きている。

このような理性を何重にも敷いてても余裕で全部貫通してくるやつってまああるので、そういうのはもうしかたねーなって自分を許してシンプルに怒っています。冒頭の友人じゃないが、そうしてぶつかると意外と分かり合えるのことは確かにあったりする。
「怒るのは良くない」と「怒るを伝えるのもまた一つのコミュニケーション」のダブルスタンダード



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