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争いがなくなるには?

私が何十年も自分を責め続けた

出来事があります。

 

それは小学校1年生の時。

 

おどおどしたAちゃんという子が

担任の先生のお気に入りの女の子

グループから虐められていました。

 

私自身は活発な子で、グループに

入るでもなく自由にいろんな子と

遊んでいました。

 

でもある日「帰りの会」と呼ばれ

る、その日の学校生活を振り返る

時間に、「Aちゃんに悪口を

言ったり仲間外れにしたりする

のは良くない」と発言しました。

 

もともと私は小学校に上がる前

から、ブッダの「八正道」という

言葉を実践しようと決意している

子どもでした。

 

「八正道」というのは

「正しく見る」

「正しく思う」

などから始まる八つの正しい道で

私はそれを大きな画用紙に書いて

自宅の机の前に貼っていました。

 

それを実践していたらブッダの

言う「自灯明 法灯明」という

境地に達すると思っていたのです。

 

「自灯明 法灯明」というのは

「誰に頼ることなく自分自身を

灯りとせよ。

誰に頼ることなく真実を灯りと

せよ。」

という意味です。

 

そんな私にとって、誰かが一人で

悪口を言われているのを見過ごす

ことは、八正道の「正しく行う」

に反する行いでした。

 

それで声を上げたのです。

 

すると虐めていた女子グループが

猛然と私に総攻撃してきました。

 

「Aちゃんは別に文句言ってない

んだから何とも思ってない!」

 

「まみちゃんだっていつでも

Aちゃんと一緒に遊んでるわけ

じゃない!」

 

ひとしきり虐めっ子たちが私に

言いたいことを言った後、担任の

先生は一言私に言いました。

 

「あんたは発言しすぎます!」

 

こうして私が悪いということに

なり「帰りの会」が終わった後、

教室の中で大っぴらに何人もが

Aちゃんをけなし始めました。

 

Aちゃんをみんなでけなすことは

先生によって公認された形でした。

 

虐める子たちに私が何を言っても

彼らは虐めをやめない。

 

先生は、教壇のわきの先生の机に

向かって仕事をしていて、同じ

教室内で虐めが行われているのに

見て見ぬふりをしている。

 

Aちゃんはいつも通りおどおど

して悲しい目をして虐められる

ままになっている。

 

先生は何も言わないし

Aちゃんも何も言わないのだから

虐めていいんだというルールが

暗黙の内に出来上がっていました。

 

そうした情景を眺めていた私に

突然怒りがこみあげてきました。

 

次の瞬間、私は、

教室にいる先生が無視できない

ほどの大音量で

Aちゃんをけなす言葉を

言い放っていたのです。

 

その場の誰よりも

私自身が驚愕していました。

 

先生はつかつかとやってきて

「なんてこと言うの!!」と

私を叱り、両手でバチン!と

思い切り私の頬をぶちました。

 

先生がそんなに怒鳴るのも

バチン!と音がするほど子どもを

ぶつのも初めて見た子ども達は

しーんとしてフリーズしました。

 

その後の記憶はありません。

 

Aちゃんへの虐めはなくなって

いき、いつしか、そんな出来事が

あったことは誰も思い出さなく

なりました。

 

Aちゃんはその時、どんな気持ち

だったのでしょうか。

 

いつものように虐められていたら

あれよあれよという間に

先生がやってきて一人がぶたれ

みんながしーんを鎮まっていく、

そんな不可解な出来事だった

でしょう。

 

Aちゃんの心の傷が癒されること

を切に願います。

 

でも私の心には何十年もの間、

この出来事が核廃棄物のように

残って毒を発し続けました。

 

ぶたれて当然だと思いました。

 

なんで自分はそんなことを

してしまったんだろう。

 

Aちゃんは、自分をかばった人間

が悪口を言ったことで

どれだけ傷ついただろうか。

 

私自身はAちゃんのことを悪く

思ってないのに嘘をついたんだし

Aちゃんを酷く傷つけたんだ。


全然正しくない!

私が悪い!

 

「正しく見る」とブッダは言った

けど、何が正しいのかは

人によって違う。

 

私の思う正しさと、先生の思う

正しさは違っていた。

 

何が正しいかはカンタンには

わからない。

 

自分の中にも外にも、みじんの

正しさも見出せませんでした。

 

こんな悪い人間はいない方が良い。

死んだ方が良いと思いました。

 

それから数十年がたち、

DV夫との離婚裁判のために

カウンセリングに通っていて

この出来事について話したことが

ありました。

 

その時カウンセラーさんは

言いました。

 

「まみさんは、Aちゃんにとって

一番いいことをしたんです。

 

Aちゃんを虐めていいんだって

思ってたみんなが、

“虐めちゃいけないんだ”っていう

認識に変わったんだから」

 

「だけど保身を考えてないところ

が凄い」

 

これは私にとって、全く新しい

考え方でした。

 

事実を見れば確かにその通りです。

 

Aちゃんに対する虐めは、その後

なくなっていったのだから。

 

今になってみると、Aちゃんを

助けるもっと良い方法はなかった

のか、とか

 

スクールカウンセラーに相談

すれば良かっただろうとか(当時

そんなものはなかったけど)、

 

そう思いはするものの、

虐めを先生が認めている場合、

小学校1年生の子どもにどれだけ

のことができたのかと考えると、

なかなか効果的な方法は

思いつきません。

 

逆に、虐めが定着するタイミング

で、一発であれほど劇的な効果を

あげられたのは、確かにAちゃん

にとっては悪いばかりでは

なかったともいえるでしょう。

 

それにしても。

 

もっと良い方法があったはず。

 

ブッダだったらどうしただろう。

 

イエスだったら?

 

そんな問いを持ち続けた私は

結婚後、自分は、他の人と一体の

魂なんだという体験をしました。

 

自分はDV夫と一体でした。

 

その他の世界の全てと一体でした。

 

昔の虐めっ子とも虐められっ子

とも、先生とも一体です。

 

一体である時にだけ、全ての人を

正しく見ることができると

今では知っています。

 

一体である時にだけ、争いを

解決することができます。

 

例えイスラエルとパレスチナの

戦争であっても、相手が自分だと

いう体験があれば終わる。

 

もちろん傷つけられれば

今だって怒ります。

 

だけど怒りは本当の自分ではない

と知っているから、怒りに完全に

支配されることはありません。

 

本当の自分は愛そのものです。

そして相手と一体です。

 

それを体験する一番の早道が瞑想

でした。

 

いろんなことで頑張って疲れたり

傷ついたり

義憤にかられたりするみんなに

自分を愛そのものだと

体験してほしいと思っています。

 
今度また瞑想体験会をするので
試してみたい方はこちらから
お申込みください。


あなたとお会いするのを
楽しみにしています。

工藤まみ



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