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したくないことも「やりたいこと」を構成する要素…と考えてみる[30/100]

迷ってばかりの人生だ。
迷わない人なんかいないので、グラデーションのある話だが、私は迷う頻度が高い。

もしかしたら私は”迷うこと”が趣味なんじゃないかと自分でも思うレベルだ。しかも厄介なことに、私は迷えば迷うほどに動いてしまう。

新卒のとき、自己PR欄に「考えながら行動し、行動からさらに考え、スピード感をもって物事をすすめることができます」みたいなことを書いた。
嘘は言ってない。しかし、行動量が迷いに比例して多くなる特性があるので、迷いに迷って元の考えていたことを忘れるレベルだ。
これをこじらせているというのだろうか。

で、そんな私がいつも迷っていることは大きく分けて2つ。
1,キャリア。仕事。どうやって稼ぐか。
2,子育て

娘たちも大きくなり、すでに私なんかを軽く超えるすごい人に育っていると思うので、こっちはあまり悩まなくなった。
代わりに、学費の存在感が膨らんできている。それに比例して仕事をどうするか、いつも迷っている。迷いすぎて、動きすぎて、転職を5回もしてしまった。

そんな私は、半年前から、大学時代の先輩のコーチングを受けている。
基本的に、私の内面から言葉を引き出すため、コーチは私に対してアドバイスや誘導はしない……はずだったが、あまりに私が毎回毎回「あーでもない、こーでもない」と言いすぎたせいだろうか。
ついにアドバイスを引き出すことに成功した。

その先輩は言った。
「将来のために、何かを我慢する必要はないんじゃないかな。
今が重なって、未来になるのだから、我慢を重ねても、我慢の先に見える未来しかない」

そして付け加えた。
「全部取りはできないから、一番欲しいものが手に入っているなら、その他のことは、その一番欲しいものを得るためのバランスを取っているものだと考えればどうよ」と。
その言葉を聞いて、なんとなく胸のつかえがとれたような気がした。

「目標のために、今何をしたらいいのか考えよう」
「今の頑張りが、未来の幸せを創る」
これまで、ずっと頭を支配してきた考え方だ。だけど、この考え方、非常に私にはなじまなかった。

いつも心のどこかで「明日死ぬかもしれないのに、その場合はどう折り合い付ければいいんだろう」と思っていた。
私の究極の目標は、死ぬ間際に「あ――楽しかった」とか「いい人生だった! ありがたい~」と思って死ぬことだ。

「未来のために、今を我慢する」姿勢と「今を楽しむ」姿勢は、どう考えても相性が悪く、結局前者の姿勢を尊重したいけれど、でもできない……というのが、実は私の迷い・悩みの根源になっていた。

だって、今、どうしても甘いものをたらふく食べたいけれど、それは未来に肌荒れや着たい洋服が着れないという事態になって返ってくる。
今、すごく長期間(年単位)の旅に行きたいけれど、それは未来に娘たちからの総スカンとか、ハードな職探しとなって返ってくるだろう。

子育てに関して迷うときも「今、この子と楽しい時間を少しでも過ごしたい(だから、多少手で食べても、食べきったことを褒めたい)」という気持ちと、「マナーを教えないと、あとで恥ずかしい思いするかも?」という打算的な気持ちが入り乱れていた。

だけど、これからは「今」一番どうしたいかを考えようと思う。
そして、その結果、何かを捨てたり、我慢することがあれば、それは「一番やりたいこと」のための材料だと考えよう。

それがどうしても我慢できない場合、他で代替できないか考える。代替できなかった場合は、その嫌なことと、やりたいことを天秤にかける。嫌なことをしない、ということも、十分に「今一番やりたいこと」に転換される…かもしれない。

いや、本当か?

うーーーーん。
多分、難しいな。

だけれど、今までは「将来のために我慢している嫌なこと」という認識しかなかったものが、「これのおかげで、一番やりたいことできているな」って思えたら、そこに少し愛が生まれる気がする。

そうだったらいいのにな。



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