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世界できみと2人きり。私は、大好きな人としか旅行をしない。

大好きな彼との海外旅行は、結婚するまでしたことがなかった。

その反動か、結婚した年は、半年間で3回も海外へ行った。その年のうちに妊娠が判明して、以降、私たちは「新婚夫婦」から「父母」になった。

最後の旅行先は、ハワイだった。親族の結婚式に参列するための弾丸旅行で、自由時間は丸1日のみ。その貴重な1日になにをしたかというと、シュノーケリングだ。


シュノーケリングとは、水中メガネと呼吸用のパイプ(シュノーケル)をつけて浅瀬を泳ぎながら、海中散歩を楽しむアクティビティを言う。
ダイビングと違って深くは潜らないため、ライセンスが不要で、手軽に楽しめるのがポイント。

泳力に自信がある私たちは「ハワイに行くならこれをしよう!」と即決した。

それまで夫の前で水着姿になることがなかった私は、なるべくかわいく思われたいと、残業続きの体に鞭を打って仕事を切り上げ、なんとか銀座の三愛水着で「これこそはッ!」という水着を買ったのだった。

現地で、その「これこそはッ!」な勝負水着を夫に披露した。さぞ褒めてもらえることだろうという私の期待に反して、彼は特に感想を言わず、「早速行こう」と踵を返した。

ビキニ、まずかったかな。似合わないかな。体型の問題かな。グルグル考えを巡らせるが、私の手を取って足早に海へと向かう彼が、一向に振り向かないのを見て、照れてるのだなとわかった。

そう思うと私もなんだか、照れるを通り越して気まずくなり、なぜこんな水着を選んでしまったのだろうと後悔しだして、とにかく海に入ってしまいたくなった。


さて、ようやく私たちは波打ち際まで来た。開放的な青空と、太陽の光を乱反射した海に目を細める。ゴーグルをつけ、シュノーケルをはめて、いざゆかん、ハワイの海へ。



そこには、私たち人間の営みとはなんら無関係の、海中の覇者が勢ぞろい。

青、黄色、朱色、目にも鮮やかな魚たちが自由に、それでいて彼らの規律を守りながら、必死に泳いでいた。

私たちは先ほどの気恥ずかしさを忘れて、驚き、顔を見合わせた。なんと美しい。目と手で、もっと泳ごう、と彼が合図する。私は頷き、彼の横にピッタリついて足ひれを動かす。

魚は、私たちを避けるように泳いでいく。きれいだね、と指をさすと、その手を彼が握り、そのまま2人で海の中を泳いだ。見渡す限りの極彩色。

ああ、この世界にきみとわたし、2人きりだね。




わたしはいま、この記事を、近所のカフェで書いている。

生まれも育ちも東京のわたしは、「誰もいない空間」を知らない。人はいつも近くにいるのが当たり前で、人の声と衣服の擦れ合う音が常に聞こえる。わたしにとっては、それが安心する空間なのだ。

あの時、わたしは怖かった。世界には夫とわたしの2人しかいないように思われた。どこまでも続く海と、勝手知ったる魚たち。孤独に胸が震えた。

ふと、繋がれた手が視界に入った。彼の、ちょっとカサカサした、大きな手。わたしの知っている手だ。ここに、全幅の信頼を寄せる人がいる。この人と一緒だったら、こわくても、踏ん張って生きていける。「病めるときも健やかなるときも。」誓った言葉がそっと浮かぶ。



彼は今、単身赴任で海外にいる。
毎朝子どもたちも交えてビデオ通話をしているが、朝は戦場で、わたしとしては会話どころではない。
夫は2時間の時差と、車出勤のおかげでゆっくりと子どもたちとの時間を味わっている。

そんな中、日曜日の夜だけは、夫婦二人で電話をする。改めて書くと恥ずかしいが、彼は、わたしの顔を見ながらニヤけている(と思う)。わたしも微笑み返す。


あの海の中で、わたしは、彼の存在と、今まで彼が歩んできた人生が急に尊いものに思われて、そのすべてに感謝した。この人がわたしと一緒に残りの時間を生きると決めてくれたことが、とても嬉しかった。

そして二人は父と母になって、仕事でも家庭でも責任が増し、互いが互いの役割を果たすことを「当たり前」と考えるようになった。
そのような中で感謝の念は薄れ、子どもが寝た後、2人同じ時間を過ごしていても、テレビを見たり読書をしたり、それぞれの活動をするようになっていった。

その時はそれで良いと思っていた。
でもいまは、彼に会ったら、純粋に2人で同じ空間にいられることを楽しみたいと思う。笑ったときの彼が、どのように目を細め、どのように口角を上げるのか。指の動く様子や、体温が上がるところをじっくりと味わいたい。

今は、旅行といえば、子どもと家族の思い出を作るためのものだ。でも、子どもたちが大きくなったら、また2人で海外に行きたい。そして彼が生きてきた人生と、その延長線上にある彼の存在に感謝したい。

わたしにとって「旅」は、非日常を味わうもの。そして、一緒に行く人を尊重し、また日常へ還元していくもの。

だから旅は、大好きなひととしか、行かないのだ。

#わたしの旅行記

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