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自分時間を優先したら、子どもと心が離れてしまう。どうしたら。

「親であっても、自分は自分。自分の人生を生きよう!」

この考え方は、近年の親世代に吹いた新しい風だ。2020年あたりから増えてきたように思う。

初めてこの考え方に触れた時、わたしは身震いした。なんてすてき!わたしは、わたしを諦めないで、子どもを持つことができるんだ!



望まぬ専業主婦を生きる

専業主婦になって2か月が過ぎた。
上の子は小学校に通い、下の子とは1日中同じ空間にいる。

タイという国に住んでいるため、すべての勝手が日本とは異なる。幼子と一緒に過ごすためには、どこに行くにも、なにをするにも、下調べが必要だ。

わたしは、イライラすることが増えた。やりたいこと=自分時間がとれず、家事と育児がのしかかって息苦しい。


仕事の方が好きだった。わたしには、集中できる時間がないとダメなようだった。仕事は良かった、ひとつのことに集中して、「いま、考えています」と言えば、考えさせてもらう時間が十分にあった(たとえ、3分でも)。

家事は、大嫌いだ。ワーママ時代、「時間が無いからやらない」じゃなかったんだなぁ、と改めて気づく。
家事は、やりたくない。ちっとも楽しみを見出せない。しかしその、やりたくない仕事がいまのわたしの仕事なのだ。なんという地獄なんだろう。


イライラする時間が増えて

ならば、せめて、自分時間だけは取ろう。
noteを書く時間。手帳を書く時間。ジャーナリングをする時間。本を読む時間。読書ノートをまとめる時間。運動する時間。
やりたいことは山ほどあった。

しかし、わたしには、そのわずかな自分時間さえリラックスして楽しむことは許されなかった。
開始して5分も経つと、事件が発生する。「ママ~~!!」という、わたしを呼ぶ声。おやつが欲しい、飲み物をこぼした、勉強がわからない、おもちゃの場所がわからない、この歌を歌って、この本を読んで、………。

わたしはいつもイライラしていた。それは、夕方になるとひどかった。
今日の夕飯と明日のお弁当を作り、食器をすべて手洗いし(タイには食洗器がない。なぜなら、富裕層は住み込みのメイドを抱えるため、食洗器など必要ない)、ごはんを食べさせ、お風呂に入れ、寝る前の読書タイムを設け、20:30には布団に入る。そのために命を懸けていた。

少しでも、自分の思い通りにいかないと、激しい怒りが襲った。はじめのうちは、怒鳴り散らすこともあった。虐待として通報されるんじゃないかと思うほど泣きわめかれたこともあった。

これじゃあいけない。こんなことをしてはいけない。
しばらくすると、わたしは、自分の腕をつねるようになった。綺麗なデザインが施されたジェルネイルで、わたしは跡がつくほど、身体をつねった。怒りを逃がすように。人にも物にもあたれないなら、自分にあたるしかないじゃないか。

それが良い方法ではないことは、わたしにもわかっていた。

リラックスせねば。
自分時間を確保して、心に余裕を持たねば。
それこそが、まさに、子どもたちの利益になる。


「自分時間」をとれば解決するはず

今度は、自分時間をなるべく多く設けることにした。

自然と、読み聞かせや会話の時間が減った。わたしは、そうとは知らずに、子どもとの触れ合いの時間を削っていたのだ。

すると、どうだろう。たしかに、わたしの自分時間は増えた。note執筆数も、ネタ帳も増えた。手帳も書けたし、ジャーナリングもできた。読書の進みが早くなった。

しかし、心はいまだ渇望していた。なぜ、なぜ。

わたしは、目前の子どもたちを見た。下の子は、わたしに構われたくて猫ごっこをするようになった。にゃあ、にゃあ。ママちゃ~ん。甘えた声でわたしを呼ぶ。

上の子は、わからなくなった。わからなくなってしまったのだ。小学校にあがりお友達と遊ぶことが増え、一緒に過ごす時間が減ったこともある。だけど、それだけでは説明がつかないくらい、わからなくなってしまった。


あんなに幼かったのに。なにを考えているか、すぐにわかったのに。
保育園の頃は、その日あったことをすべて話してくれたのに。
自分のことを、名前で呼んでいたのに。

わたしを見る上の子の目は、おびえているように見えた。ママはいつ怒りだすんだろう。そのうえ、反抗の色もあった。「このひとはなぜそんなに怒っているの?」。


だれだ、この子は。この子たちは誰なんだ。わたしの子か。すべてを知っていると思っていた、わたしの子どもたちなのか。


これがわたしの理想の人生なの?

心が離れてしまう、と思った。

このままいたら、わたし、きっと、この子たちと心が離れてしまう。
一度離れてしまったら、もう二度とあの心地よさは味わえない。お互いがお互いを大好きだということを知っていて、常に味方だという自信があって、心と心が触れ合う、あの心地よさ。


ねえ、これがわたしのやりたいことなの?
あの心地よさを手放してまでやりたいことなの?
子どもたちを傷つけてまでやりたいことなの?
こんな顔をさせてまでやりたいことなの?


そんなことないだろう。


親の時間を優先するのを辞めた

長女を出産した2017年、「親であっても、自分は自分。自分の人生を生きよう!」という考えすら知らなかったわたしは、若い母親だった。

いつも子どものことを考えて、子どもが笑ってくれると嬉しくて、この子が良い人生を歩めるならなんでもする、と思った。

母親の自己犠牲のうえに成り立つ子育ては、娘のためにならない。じきにわたしはそう考えるようになった。
わたしは、娘に、こんな想いをさせるために子育てをしているのではない。彼女が大人になった時、真に自分の人生を生きながら、望むなら子どもを持ち、子育てできる世界にするのだ。その信念は、わたしの指標になった。

だから、いままでわたしは背中でそれを見せてきた。
わたし自身が、仕事を持つこと。自分の好きなことに熱中すること。自分の人生を生きること。

だけど、それは、子育てと相性が良いのだろうか?もしかして子どもたちはこう思ってやしないか、「親は、自分の都合を優先している」。




いま、わたしは、自分時間を設けつつ、合間に入る子どもの声に耳を傾けるようにしている。
その時間を「邪魔された」と思うのではなく、「子どもに向き合った」と解釈を変えるようにした。

根本的な解決にはならない。しかし、この2か月で一番良い考え方だとは思う。


わたしは、キャリアコンサルタント取得時に決めたことがある。
それは、「親も子もしあわせなキャリアと子育てを考えるひとになる」。親だけでも、子だけでもない。お互いがしあわせになれる時間の過ごし方とはなにか。

それを、これからじっくり向き合って考えて行きたい。




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