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#023 生きづらさの根っこは自分の価値観にあるかもしれない

生きづらさの原因を作っていたのはわたし自身だったのかもしれないと思うことがあった。

仕事を休むのは悪いこと?


流産を経験した時、本当はもっともっと休みたかったけれど重たい心と体に鞭を打って仕事に行った。

それはなぜか考えてみると、
仕事を休むこと=悪いこと
のような価値観を持っていたからだと思う。

物心つく前から「人に迷惑をかけるな」と教わってきた私は、仕事を休むことで同僚に迷惑をかけてはいけないと考えていた。
それに加えて、こんなに仕事を休んだらどう思われるのかという不安もあった。

有給や病休など使える制度はちゃんとあるのに、使うことは気がひける。

誰も「休んではいけない」なんて言っていないのに、まるでそう言われているかのように思いこんでしまっていた

それが世間一般の意見であるかのように思いこみ、ただ自分から苦しい道を選んでいただけだと気づいたときの衝撃はとても大きかった。

世間ってなに?

太宰治の『人間失格』にこんな一節がある。

(それは世間が、ゆるさない)
(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)
(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)
(世間じゃない。あなたでしょう?)
(いまに世間から葬られる)
(世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?)


主人公が友人に詰め寄られ、「世間とはなんだろう?」と考える場面なのだけれど、主人公が「世間ではなく、あなただ」と結論づけるのがなんとも言えずかっこいい。

「普通は〜」とか「みんな〜」などと言うけれど、結局それは自分一人の意見なのにね。

「有給の取得」を例にしてみると、日本では有給を全部使い切れる会社が少ないと言われている。
本当は全部使い切っていいはずなのに、使い切らないのはなぜなのか。

それは、一人ひとりが「有給を取得することは“世間的”によくない」と思いこんでしまっているからかもしれない。

その一人ひとりの思いこみが、数珠つなぎのように連なり続け、職場全体が、日本全体が、有給を取得しにくい雰囲気を作ってしまっているんじゃないかなあ。

自分の価値観を疑ってみる

「仕事を休んではいけない」とか「仕事を休むと同僚に迷惑をかける」などと不安になるのは、私自身が自分の価値観から「こうでなければいけない」「こうありたい」とかけてしまった呪縛のようなものだと思う。

世間は変えられないけれど、自分の価値観なら変えられる。

数珠つなぎの輪に入らずに、飛び出してしまってもよいのでは?
そうして一人ひとりの意識が変われば、数珠もほどけていく。

「生きづらいな」と感じた時は自分の価値観を疑ってみようと思う。

「こうありたい」「こうでなければいけない」と自分をがんじがらめにしているのは、ほかでもない、わたし自身の価値観かもしれないのだから。

おしまい。
ほんじゃ、またね〜!

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