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日記2月8日。 #日記

一昨日は最高気温17度、昨日は14度と大変あたたかかったが、本日は最高予定9度ということだ。なんとなくだが、底冷え感は減ってきた気がする。2月は1月より寒いイメージがあるのだが、そうでもないのだろうか。体重は朝食後ながら67.9キロと大変重くなっている。筋肉量は56.4キロ、体脂肪率は12.5%といったところ。内臓脂肪が8%あるので、今週またすこし絞る必要がありそうだ。冬場は本能的に巣ごもりというかエネルギーを体が蓄えようとするのだろうか。どうしても動きがすくないからか、体重が増えがちである。

匿名について。

本名でFacebookをやる気がしない。やれば学校の同窓会で便利、ということは聞くのだが、毎日なにを食べた、とかどこへ行った、とか全く書く気がしないのだ。

ペンネーム等でできるとも聞くのだが、わざわざ開設する気がしないのはなぜだろうか。

Facebook発祥の地米国では、単なる私の印象であるが”責任をもって個人名を堂々と名乗り意見を言う”皆さんが多いと思っている。実際はどうなのかはわからないが、そういう態度が望ましいもの、とみなされているが故に逆にそうした態度しか取れないのではないだろうか。それもなかなかめんどくさい。

三浦あんり氏の不寛容に関する著作に対する個人的な理解は、雑多な文化や宗教がごった煮的に集まった社会である米国では、自己の立場を守るためには、逆に自分と全く反対で、時には嫌悪感が起きる意見であっても、だからといって発表することを拒否する、という態度ではやってゆけない。なので、そうしたもの、自身の本心には全く相いれないものでっても、それを発表し、発言することに内心いやいやであっても同意する態度が必須である、というものだ。

今朝匿名について考えていて思った。そういう社会で敢えて匿名で意見を発表することは、逆に”なぜわざわざ名前を隠すのか”という疑義を受けてしまうのだろう。

これは日本のマスク文化とも関連・類似した状況だ。現在はコロナにより全世界でマスク装着が必須となったが、それまでは日々比較的マスクをつけっぱなしの人々が一定数いた日本の文化に対し、欧米流の感覚では”顔を隠そうとしている””重病人であるとみなされるリスクがある”、と言われたものだ。

WEBで”匿名”で隠れることは、マスクで顔を隠すことと親和性がある態度だと思う。

日本にてWEBで意見表明を行うには、個人的には匿名やペンネームで行いたい。これはやはり日本という国が”同一民族が多数で同調圧力が強く、空気を読んで同じことをすることを無意識に、暗に要求する不寛容な社会”であるからだろう。

勿論アメリカでもWEBに於ける炎上現象はあるのだろうが、日本とはすこし違った形となる気がする。

どちらがいい、悪いというわけではないだろう。双方の文化のおかれたところが現在違っている、ということだ。だが、三浦氏の著作が示す通り今後WEBが世界となれば世界は否が応でも単一化していく。日本人が日本という文化の中だけで過ごすことは、徐々に難しくなってゆくだろう。そして、その時には残念ながら、もう”匿名”でいたくとももういられないということに、なってしまうのかもしれない、と思っている。

(匿名であることは、この日本では特にずるいことではない、と感じます)


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