日記11月22日。 #日記
過去日記になってますが。(これを記載しているのは25日)
ウイークデイは書けるのだが、土日休日は現在の勤め人、というスタイルだと休みモードとなり日記や創作(銅版画など)も休みモードになりがちだ。
定年後、という概念がある。今では何歳から定年か、生涯働くべし、つまり高齢者へ支払う年金を減らせ、という議論の方向になっていると認識しているが、戦前戦後で55歳定年であったとき(磯野波平はたしか55歳という設定)、会社を退職したあとの生存期間は10-15年程度を想定していたはずなので、定年後の自由時間というのは体調もイマイチで茫洋とすごす、ということを基本設定にしていたのではないだろうか(誰が?)。
定年、になると、曜日が無くなる。”毎日が日曜日”というフレーズは自由な日々を表している面と同時に、やるべきことがない悲哀をもすこしく伝えてくることばでもある。
であれば冒頭の私の言、”土日は休日モードで諸作業ができない”とうことではたしていいのであろうか。毎日が日曜日、になってしまうと、イコールなにもできない、ということになってしまうのではないだろうか。
というようなことを考えている。
要するに、すこし土日も平日モードで、もっというと毎日決まった時間に決まった動きを、するのがよいのではないかな、個人的に、と思っているのである。
21日(土)は琵琶湖方面に日帰りでドライブをした。この地方の天気は当日は晴れる、ということであったが、午前中は場所によっては雨や風がつよかった(午後は快晴)。紅葉はまだ最盛期、という感じではなかったが、楽しめた。
いままできちんと琵琶湖へ行ったことはなかった。琵琶湖湖畔を歩く、ということも初めて。思ったのは水が綺麗で、(当たり前だが)海藻や貝、といったものが波打ち際に散乱していない、ということである。干満が(あっても)すくないのであろうか。ほとんどないのかな?
私の子供の頃の印象、これは子供だから目線が低かったせいかもしれないが、道路にも、土手にも、海にも川にも、プラスチック製品(主におかしのつつみなど)や缶などが至る所に捨てられている、というものである。それを見て、”この世界はものをそのあたりにぽいぽい捨てる人であふれている。それが世界の基本である”と感じていたものだ。
最近はたまにそう思うこともあるが、ごみが視界から減ったように思う。捨てられていないと、自らが一番で捨てることには、心理的なハードルができる。捨てることはあっても、”なにも捨てられていないところに、モノを捨ててしまった自分”という印象が、心のなかでずっと残ってしまうような気もする。もちろん、気が付けば周辺のゴミを拾う方々もいるのだろう。そんなこんなで、視界からゴミが減ってきているのだと思っている。
さまざまな社会の変化があった。車中で区別なくタバコが吸えたこと。セクハラ、パワハラ、そしてアルハラ。定時後の暗黙の説教飲み会(しかも一部自分で費用を負担)。嫌だなあ、と思っていたことが、少しずつだが良い方向に変化していると感じている。そのことだけでも、世界はすこし、進歩しているような、気がしている。
(土日にゆっくりしたら身体は休まるだろう、とおもうのですが、実はだらだらしていると身体の調子はイマイチな感があります)