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9.14 実存の危機。藤村操。華厳の滝。

完全な他力、かそけき自力の気配をも許さないのが親鸞の思想であろうか。

さて、10月からの東京勤務でいろいろとあわただしい。なんというか、決まったルーティンを行う時は心のなかに余裕があって、それをつかんでこれまたルーティンの運動や散歩を放り込むことで、心が整ってくる。だが近い未来に大きな変化があると、なかなかその心の余裕が喰われてしまって、なんというか、日々の生活が浮ついた感じになる。

ではそれが忽ちいけないのかというと、そうでもないだろう。ある程度の刺激がないと、あるいは変化がないと、じわじわと活力が削られていく。要は意識して対応してゆくしかないのかもしれない。

片山廣子の評伝を引き続き読んでいる。時代におさえつけられ、なんというか我慢を続ける部分が多かった、ということを想う。だがその重石をじわりとのけるために、いわば感覚を磨くために、言葉を磨こうとして、それがそのころは短歌を学ぶ、という手段があったようだ(特に女性が多かった気がする)。

私は短歌を詠んだことはない。一句もない。なので読むのに関しても素人だと思う。短歌や俳句には情景や情念が幾重にも込められており、そこに例えば女流歌人(与謝野晶子など)であれば時代への不満が歌という形でジワリと湿潤に提示されることもある。それを読むにはこちらも余裕と気力が必要だ。さまざまな経験も必要なのだろう。

晶子と同年生まれであった廣子は、情念の湿潤さとはまた違ったからりとした論理性をもそなえつつ、しかし同質以上の深き思いを秘めていた。それをどのような形でか、形にしたい、という想いが、押さえた言葉からにじみ出るのだ。

西洋文化にその時代としては稀有の環境で接した廣子であるが、家族のさまざまな不幸をうけ、敬愛する年下の才能あふれる芥川龍之介をも自死で失い、戦争で家を奪われそれでも出自がなんとか助けとなり「赤貧」ではない「ピンク色位の」貧に陥る。

戦争、である。そのころの青年は、戦争がいつ果てるとも知れず、出征したら死を覚悟、というところにいたのであろう。あるいは幕末。欧州に蹂躙される清国を見て、自身の国も飲み込まれるという危機感。

こうしたことは他人事の社会ではなく、自身が飲み込まれ、翻弄されるべき未来として、社会に関わる、あるいは関わらされるプレッシャーとなったのであろう、ということが、最近になってやっと少し感じるようになってきた。

悠々たるかな天壤、遼々たるかな古今、五尺の小躯を以て此大をはからむとす、ホレーショの哲学竟に何らのオーソリチィーを価するものぞ、万有の真相は唯だ一言にして悉す、曰く「不可解」。

1903年、16歳の藤村操が華厳の滝で自殺する前に滝落口の巨木に刻んだという「厳頭之感」の前半部である。

調べてみると藤村氏は旧制一高生で、夏目漱石が36歳で英語教師として赴任して初めての授業で藤村氏を指名、予習してなかったので次回やってくるように指示、その次回に再び指名したところ予習していないということであったので、もうこの教室に来る必要はない、と申し渡した生徒である、ということであった。その出来事があってから2日後の自死であったとのことだ。

それが直接のきっかけであったかはわからない。実存の不安と疑念を抱いていた藤村氏が、授業での叱責で自殺に至ったとも思えないが、なんらかのきっかけになったような気もしないではない。

漱石にとっても赴任して初回、2回目の授業で起きたことで、深く意識に残ったであろう。

藤村氏の遺書を読んで、彼がどのように考え、何を真に悩んで自死に至ったのか、私としてもすごくわかった、という気はしない。

だがなにやら、生きるとは、この世界とは、というようなことが、さまざまな時代趨勢もあり、藤村氏の脳裏で大きな疑念として渦巻いていたのだろうか、というようなことを、ぼんやりと思っている。

(曰く、「不可解」、という言葉、どこかでよく聞いた気がします)

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