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一度死んだから言えること


◉悲しみの轍

それは何十年も前に狂った親の暴挙により締められた首に、浮かび上がった悲しみの轍

死にたければ自分一人で死ぬべきである。残された子供がかわいそうだろうが、一人では寂しいだろうが、それは勝手な言い草である。巻き込むなんてオカシイ。

道連れとは己への救いだ。子供に縋り救いを求め、その魂を捕まえて共に地獄へ堕ちていく。

以前に『ならば子供を産まなければ良い』と述べたら、『賢い女はそもそも産まないよ。先の事まで想像出来ないから簡単に産むんだよ』と叱られた。

さもあらんと納得した。

しかし、問題はそこではなく道連れにされかけた子供たちである。そうやって奇跡的に逃れた子供は生涯苦しむ。

『母はなぜ私を殺そうとしたのか?』『私が悪い子だったからなのか?』と何とか腑に落とそうとして、自分に何らかの問題があるからだと悩む。

そんな出来事は、親に付けられた刻印であり悲しみの轍としてその子供の奥底に沈み込む。愛する母親に永遠の十字架を背負わされたのだ。

『いっそ嫌いになれたなら楽なのに』と、親子という繋がりが鎖となって悲しみをもたらし、首に悲しみの轍が残る。

それは成人とともに、『自分も母親の様にしてしまうのかもしれない』と言う恐れが密かに湧き起こる。子供が何となく苦手になる。嫌いになる。

それを今世で処理しておかないと、何度転生しようとも逃げられない魂の楔(くさび)=カルマとなる。

だから浮かび上がって来た時に削除するしか無い。それが一番早くて有効である。

しかし、それは常日頃引っ張り出せるものではなく、その本人が何かのキッカケで思い出す事で浮かび上がった時に行うしかない。

泣こうが喚こうが、心に刺さった楔を引っこ抜くのは自分しかない。向き合うのは苦しいがそれを抜くのは他人では出来ない。

先日診たクライアントさんもそうだった。

浮かび上がったソレに手を当てて要らぬものとして消して行く。同情も愛情も何も要らない。要らないものに要らぬ気を掛けない。ただただ要らぬものとして消して行く。それが一番と私は思う。

その後の清々しい顔が素敵だった。

後は戻らないこと。思い出さないこと。人は脱却したのに戻りたがる。振り返りたくなる。それも輪廻である。循環である。そういう世界だから。

あなたと家族の周りの人が今日も健康であり幸せでありますように・・・。

続く



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