見出し画像

退屈な地元で考えること

地元に帰って、もう9ヶ月が経とうとしている。
今年の時の流れの速さは人生の中で経験したことがないような随一のスピード感なんだけれど、全国的に、世界的に見てもそんな感じでしょうか。
時の流れの体感は生きてきた長さに比例する(?)というようなこと、聞いたことがあるから、幼い子供たちにとっては長い一年のやっとこ半分といった体感なのだろうか。

本を読むことしかしていないといっても過言ではない9ヶ月を生きてきた。自分からも周囲からも目に見えて分かるような飛躍、成長はしていないと思う。
ただ、そんな中でも心の営みのようなものは小さくも続けてきたつもりで、その中では微々たる変化を積み重ねてきたように思う。周囲からは見えない、自分対人生との対話なので、寝っぱなしだったよねと言われても否定できないし、あながち間違ってもいないんだけどね。

エッセイを読むことが好きで、特に母親ぐらいの年齢の作家の文章や考え方に救われる瞬間が多くある。自分と同じくらいの年齢の人もしくは歳下の作家さんの文章は、人生に対する不確かな確信みたいな曖昧さが心地良い時もあれば、物足りなく感じることもある。というのは、現在の私が自分のことを、社会のことを、世界のことを、人生のことを、よく理解できていない段階に生きているからだろう。ぼやっとした問いに対する応えやヒントを見つけたいんだろうな。自信が欲しいんだろうな。

人間の生み出す言葉にしかできないことがある、と信じてやまない。
AIとかついつい話題に上がるし、文章を仕事にしたいなんて言ったもんなら、人工知能に取って替えられるなどとご意見をいただくけども、人工知能にも超えられない限界が、言葉に関してはどうにもあるように思うし、また希望でもある。
言葉というものの裏にあるその人の思想や価値観も含めて(想像して)文章を読むし、それで人は救われたり、成長するきっかけをもらったりする。ただそこにある言葉の羅列を読んでいるわけではないし、表出した言葉通りのことを受け取っているわけでもないと思う。
人工知能が作り出した文章を起用したり、それで良いと満足する人が出てきたとしたら、いよいよ向き合うべき課題は受け取る側の心の部分にあると私は思っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?