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栗ハンターになる

退職したことを投稿してから、やく1カ月ぶりの投稿を失礼いたします。

退職後はそれなりにやる事があって、相変わらず気持ちを言葉に落とし込むのに時間がかかる私は、「今日の出来事をnoteに書きたいな」と思うことがあっても、それを実行できないまま今日に至ってしまいました。

最近の状況を簡単に述べると、
退職後も変わらず、心療内科へ2週間に一度受診しています。
ここ最近は、というか7月頃から、特に起床直後に体の節々の痛みがあって体を動かすのが辛いこと、体がつかれやすく気になっていることを相談したり、書類に記入してもらう等のやり取りをしていました。

私は、適応障害になる以前から甲状腺機能低下症で内科に通院しているのですが、自己免疫疾患系には気を付けようと思い、内科の先生にも症状を報告、リウマチの検査結果は異状なしという事だった。
適応障害が改善して、無事退職もして、精神的に楽になったはずなのだが、体の異変がちょこちょこあって、そういう不安の種を小さいうちにとっるように心がけています。
それでも、リウマチの検査結果が出るまでは不安で眠れない時もあって
健康が第一だと改めて痛感します。

受診以外では、元同僚であり、退職後も友人としてお付き合いして下さる方が数名おり、その方たちとお食事に行ったり、
野菜の出荷手伝いをしたり、
クッキーの試作をしたり、
ボランティアさせて頂いている施設向けに資料を作ったり、
図書館から本を借りて、日本の歴史を学習しなおしたり、
大学へ行き、指導教員の先生と研究のことで助言をいただいたりしていました。

未だに朝8時近くに起きてしまうこともありますが、
規則正しい生活、
目標を決めて、実行する生活を心がけています。


さて、前置きが長くなりましたが、本題に移ります。
私が「栗ハンター」になったというそれだけの話です。

我が家には「ぽろたん」というかわいい名前の栗の木があり、6センチくらいの大きな実をつけます。
また、近くの雑木林には柴栗もあります。小さいですが、甘みのあるおいしい実をつけます。

※「ぽろたん」は、渋皮が剥きにくく調理が大変、という二ホングリの課題を解決すべく品種改良によって誕生したのが、このぽろたんだそうです(農研機構のホームページより引用)。

つやつやの実がなっているのを発見した時から
「リスに食べられる前に収穫したい」という気持ちが芽生え
数週間、毎日栗の収穫に熱中しています。

全身赤っぽい作業着に身を包み
自然に落ちた栗を拾うのではなく、
ターゲットの栗を見つけては、積極的に木の棒で栗の木を揺さぶって落として拾う姿は、「栗拾い」よりも「ハンター」が似合うなあと思いました。

時々栗が自分をめがけて落っこちてきて恐怖の時もありますが
今のところけがなく収穫できています。
わくわく楽しい時間です。

これまでに1kg以上の栗を収穫し、
ゆでぐり、栗ご飯、栗の渋皮煮でおいしく頂いています。

もちろん野生の動物たちの貴重な食糧でもあるので
人間が独り占めしないよう
ほどほどにとるように意識して
どんなに大きな栗でも、虫が先に食べていたら虫に譲って
収穫後は手を合わせて、自然の恵みに感謝しているのはここだけの秘密です。

調べたところ、
柴栗は、古くは縄文時代から食用とされてきた山に自生している栗で、
現在栽培されている様々な品種の原種となっているのだそう。
(参考:柴栗/シバグリ/しばぐり/山栗/ヤマグリ<栗の品種:旬の果物百科 (foodslink.jp)

縄文人も栗の収穫を楽しんでいたのかな、とか
木についているつやつやの実を見てわくわくするのは
縄文人も現代人も同じなのかな、などと思いを馳せたら親近感がわいてきました。

話は飛躍するけれど、
今日本史を読み返していていろいろと思うことがありました。
(正確性に欠ける部分があることはご了承ください)

今でこそ農業従事者、一次産業従事者といった名称がついているけれど、高度経済成長が始まる前までは、食糧を自分たちでまかなう自給的農業が多かった。牛や馬は畑を耕したり、糞は肥料として利用するなど、人間にとって仲間だった。お米はめったに食べられるものではなく、その土地の環境に適した雑穀や食べ物つくり、工夫して食べてきた。それが今日の郷土食であり、生きる手段としてだけでなく自然と共存し、自然に感謝する思い、いかにおいしく食べるか、日々の労をねぎらう思いやりも込められていた。先人のそのような工夫によって命が続いてきたからこそ、今の私たちがいるんだよな、と。

また、日本人の感性を説明する言葉として印象的なのが、
「日本は春夏秋冬があって、毎年台風が訪れ、地震や噴火など自然災害が多い島国。自然の恵みに恵まれているが、同時に自然の脅威にもさらされる国。(省略)季節が移り変わるのも、台風が訪れ、地震が起きるのも、雪が降るのも、米ができるのも、海に魚がいるのも、鳥が飛んでいるのも、すべての自然現象は、それぞれをつかさどる神様のなせる業、と考えられるようになった。八百万の神というはっそうが生まれたのは、文字どおり”自然”のなりゆきだったというわけだ。」
(引用:常識として知っておきたい日本の三大宗教 神道・儒教・日本仏教
ルーツから教えまで、その違いがよくわかる本)

自然を受け入れ、感謝し、共生する感覚は日本特有だとか。

一方で現実に目を向ければ、お客様が神様のような感じになっていて、「需要のあるものを売る」傾向が強い感じ。健康をうたった食品やおいしい物がたくさん販売され、楽しませてくれるけど、中身を見れば輸入された原材料でつくられたものが多いですよね。
物は豊かでお金があれば買えるけれど、海外なしでは自立できない状態。
潜在的な食糧危機の状態ではないかと。
もちろん、そのために国を挙げて農業政策を頑張っているのもわかっています。

それと、コンビニも数百メートルしか離れていないところにできてはつぶれる光景。
便利だし恩恵も受ける人もいるけれど、なにか違和感を覚えるのは私だけでしょうか。

環境問題が深刻化する中、日本人独特の感性が今こそ活かせるときなのではないだろうか、と考えたり
でもそこには人間が自然に対して少し謙虚になる必要があるのではないかと思ったり
科学の力も活用しつつ、自然の循環、自然の力というものに耳を傾けてあげる必要があると思ったり
つまりは、昔にさかのぼって学ぶことがたくさんあるのではないかと

何が悪いとか、正しいとか、そういうことを言いたいわけではありません。
けれど、栗をもとめて自然の中を歩くなかで、おのずと考えていました。

栗ハンターに変身した話をさらっと書くつもりが、
自分が今感じている疑問や思いまで吐き出してしまいました。

未熟な知識と、狭い視野による発言のため、不快に感じられた方もいるかもしれません。が、共感してくださる方がいるのではないかと思ったり。

いずれにしても、最後まで長文を読んでくださった皆様には大変感謝致します。
最後までお付き合いくださり、ありがとうございます。
失礼いたします。

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