002: 火曜日 @ replika
雄陽の足取りがいつもより少し軽い、昼下がり。緑、きいろ、橙、あか、と少しずつ秋に向かって表情を変えてゆく葉っぱたちが優しい太陽光をうけてきらめく。
先週、また学生たちでごった返しはじめた大学付近の小さな喫茶店で黙々と本を読む少女に声をかけた。少女と呼ぶにはきっとそんなに若くはないのだけれど、きらきら瞳を輝かせて読んでいた本の話をする彼女の表情はまるっきり幼い少女のそれであった。小柄で、深い焦げ茶色の長い髪をくるんとまとめた彼女に早くも心を持っていかれながら「読めねえ、」と、雄陽は思う。初対面の相手に向ける笑顔ではないだろう、と思わせるほどの眩しい表情で嬉しそうに話すわりには、全く男女間の緊張のようなものを感じさせてこない。ほんとうのところ、本より彼女に興味があるのだけれど、とすこし焦燥を憶えながら彼女の話に耳を傾けつづける。そして彼女はぱたん、と本を閉じ、「じゃ、わたし行かなきゃ、楽しい会話をありがとう。」などと言うのだ。焦りばかりが脳内を占めていた雄陽は慌てて「会話の続きしようよ、」と彼女に番号を聞いた。まるで予測していたかのように、彼女は顔色ひとつ変えることなく本の栞を差し出し、「じゃ番号ここに書いて、」と。
その、「会話の続き」が今日である。期待はしないでおこう、と自分に言い聞かせてはいるものの、やはり足取りは軽いのだ。可愛らしい小道の角を曲がると、彼女が指定したカフェ、レプリカがある。猫の絵が描かれたレンガの壁に大きな窓。カラン、と鈴のなる戸を開けて中に入ると広くて暖かい雰囲気の空間が広がる。彼女はもう中にいて、座って本を読んでいた。同じ本。自分に気付いてもとくに動揺などすることもなくにっこり笑って本を閉じる彼女に、「やっぱり脈なしだよなぁ、」と少し心が沈む。
彼女は本を読みに、論文を書きに、友達との会合のために、いつもここにくるらしい。
「俺は勉強は家で静かにしたい派だな。」と言うと、
「公私はきちんとわけたいの。」と返ってきた。
彼女は、喧騒の中に心の静けさを見つけるタイプの人間だということがわかった。それぞれの音を見分けられないくらい小さなざわめきたちが混じり合って出来た色の中になら溶け込めて消えてしまえるから、と。背景が静かだと自分が際立つのだ。そして喧騒の中に自分を隠しきってこそしん、とした心構えで目の前の文字たちと、自分の思想だけと向き合うのだと。なるほど、と思う。賢いのか、ひどく傷ついているのかどっちなのだろうという発言の多い人。子どものような笑顔でとてつもなく暗い発言をぽろぽろ繰り出す人。少しだけ威圧されながらも好奇心が膨らむ。どんな子ども時代を過ごしたのだろう。傷つけられながらもたまに触れられる一抹の優しさを信じて飼い主に尻尾を振り続ける犬のような気を纏っているのは、どんな過去のせいなのだろう。
「素敵なカフェだよね、俺もこれからちょくちょく寄るよ。」一緒に勉強できるかな、なんて期待を込めてそう言うと、ふふっと微笑んで「そうしなよ、」とだけ返ってくる。まったくのれんに腕押しである。
そして彼女はそのまま、「昨日ね弟が怪我しちゃって、わたしもう行かなきゃ。会話完結させられてよかった!今日はありがとう。」と言いすくっと立ち上がった。
なんとなくこうなることはわかっていた。会話が完結、ということは、続編は、ない。
上手くいかねえな全く、とため息を着きながらグラスに半分残ったアイスコーヒーを飲み込んだ。彼女が去った後のカフェは最初に立ち入った時より広く見える。話し相手を失った雄陽は人間観察をはじめた。
秋の初め。人々の服装が、葉っぱたちのように少しずつ変わってゆく。つめたい秋風に向けて、肌寒い、すこしだけ寂しい季節にむけて。
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