ナナフシ#5

(この物語はフィクションです。数回に分けて完結させる予定で、今回は第5話です。未読の方はよろしければナナフシ#1から順番にお読みください)
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 昼前に会社のトイレから出ると、廊下で笹木と出くわした。笹木は大量のファイルを抱えていた。わたしとすれ違ったとたん、分厚いファイルが雪崩のように足元に崩れ落ちた。わたしはそれらを拾い上げて、運ぶのを手伝うと申し出た。
「ありがとうございます。書庫まででいいので」
 笹木は礼を言って、ついでにこの間の傘の礼も述べた。
「今日は持ってくるのを忘れましたが、明日必ず返します」
 ファイルを抱えながら、笹木の車いすの後ろについて歩いた。彼は慣れた手つきで車輪を回し、なめらかに廊下を移動した。わたしはひどく残酷な気分になって彼に訊ねた。
「笹木君はなぜ、足が悪くなったの?」
「急に踏み込んだ話をしますね」
 笹木は平然と答えた。
「子どものころ、高熱を出したんです」
 笹木が気分を害さなかったので、わたしは余計にいらだった。
 笹木が書庫の鍵を開けて中に入った。電気をつけても薄暗い部屋の中で、ファイルを番号ごとに書棚に仕舞っていった。高い位置は笹木の手が届かないので、わたしが手伝った。書棚が揺れると細かいほこりが舞う。わたしはくしゃみをした。笹木はわたしを見上げて言った。
「お返しに、こちらも個人的な事をお訊ねしてもいいでしょうか?」
 そう訊きながら、わたしにファイルを渡す。
「百地主任と、私的な付き合いがあるんですか?」
 わたしは鼻をすすりながら答えた。
「誰かがそう言っていたの?」
「いいえ、違います。この間、エレベーターで百地主任と話している時、ふとそう感じたもので」 
 わたしは苦笑いした。
「人と眼を合わせないのに、年増の主婦みたいに勘ぐるじゃない。いやらしいわね」
 笹木は息をひそめて訊いた。
「ええと、ご存知ですよね? 指輪はしてらっしゃらないけれど、主任には奥さんとお子さんがいます」
 柄にもなく心配してくれているようだった。わたしはわざと黙りこんでやった。笹木は気まずくなったようで「ああ、すみません。余計な事でしたね。忘れましょう」と言った。
 ブラインドが下げられた書庫内は、学校の図書室に似ている。リノリウムの床にはほこりがつもり、靴の裏に嫌な感触を残す。
「わかってて付き合うのは、罪だと思う?」
わたしは、笹木を見ずに訊ねた。
「いいえ、思いません」
 笹木はきっぱりと言うので、わたしは笑ってしまった。
「どうしてよ?」
「原爆を落としたパイロットに罪があると思いますか?」
 笹木が真剣に言った。
「あるわ」
「なぜ?」
「わたしが原爆を落としてしまったとしたら、きっと生きて行けない。罪を感じるからよ」
「パイロットは命令されたとおりに実行しただけですよ。罪があるとしたら、命令した人間のほうです。その罪すら正当化することが可能です。現にあれも、戦争を終わらせるためという正義の名目の投下だったわけで」
「それとこれとは違うと思うけど。誰かに命令されているわけじゃないし」
「いいえ、違いません」
 笹木は笑わずに言った。
「罪というものは、あると思わなければないものです。感傷的な戯言です。だから、罪だと思うかと聞かれれば『いいえ』なんです」
「慰めてるつもり?」
「いいえ、ぼくには何の関係もないことですし」
「じゃあ、どうして訊ねたのよ?」
「別に」
 笹木はとぼけて言った。
「あえて言うなら、自分の直感の確認作業ですね」
「よかったわね。むかつくほど正確よ」
 わたしはまだ残っているファイルをすべて笹木に押しつけて、書庫を出た。
 更衣室に入って、自分のロッカーの扉を開くと、中からまたビニール袋が三つ転がり落ちた。一つを拾い上げて開けると、食べかけのパンとお菓子の空袋が入っていた。さすがに腹が立って、警告のつもりで背後の長椅子に並べて置いた。ロッカーには貴重品を入れないことになっているので、ほとんどの社員が鍵をかけない。扉の内側にセロテープで貼ってあった鍵をはがし取り、ロッカーを施錠した。

 
 ナナフシの前足が取れた場所からは、まさに蔦のような、先がカールした小さな前足が生えてきていた。彼女は、手の平ほどの大きさになっていた。足は節くれだって、触角は長く伸び、身体の色は茶褐色にかわった。バラの鉢植えに留っている時、完全に擬態してどこにいるかわからないこともあった。わたしが彼女に触ろうとすると、尻をさそりのようにそらせて威嚇するまでに強気になっていた。虫かごさえ窮屈そうだったので、ユニットバス自体をナナフシの部屋にすることにした。実際、ユニットバスは、ナナフシを飼うのに最適だった。

(続く)

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毎回、吉日に更新いたします。
次話は2020年2月9日(日)です。

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