ナナフシ#6

(この物語はフィクションです。数回に分けて完結させる予定で、今回は第6話です。未読の方はよろしければナナフシ#1から順番にお読みください)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ナナフシは、夜間に室内を広く活動した。彼女に湯がかからないように、シャワーを浴びるのは一苦労だったが、その姿を見ながら風呂に入るのはなかなか素敵だった。
 裸で彼女の前に立つと、わたしも自然界の生物のひとつであると確信できる。存在する時点で完結した個体。わずらわしさも汚れもない、いたずらな孤独感もない。だって誰しもが孤独なのだから。それは埋めるべきものでも、抗うものでもない。静かに受け入れて眺めるものだ。彼女がそうしているように。
 ある時、わたしがシャワーを浴び終えて身体を拭いていると、何を思ったのか彼女がわたしの左足を登ってきた。じっと見守っていたら尻を伝い、腹部へ迂回して来て、へその左横で落ち着いた。固く細い足が肌を掴む感触はくすぐったく、まだ完成していない右足を見ると、なんとも愛おしい気持ちになった。自分の裸の腹にくっついた彼女をまじまじと見下ろす。すると驚いたことに、彼女はそこで卵を産み落とした。拾い上げるとそれは、米粒ほどの大きさで、茶褐色の表面に細かい産毛をまとっていた。卵まで、植物の種子に似ていた。
「おめでとう」
 わたしは彼女に言った。
「大切に孵化させようね」
 風呂からあがって、卵をうやうやしくココットの上に載せた。ふと、姿見に映る自分の身体に目が留った。わたしの身体は白く、関節は脂肪を纏ってなめらかな曲線を描いていた。なぜ、わたしの腹には節がないのだろう? 戸棚を開いて油性マジックを探し出し、もう一度鏡の前に立った。まず乳房の真下に一本太い線を引いた。身体を折り曲げたときにできるしわにそってもう一本。へそを挟んで上下に対称的な曲線で二本。そして左右の腰骨のでっぱりを結んで完成。腹に節を持った姿はまるでナナフシの化身のようだ。わたしは満足だった。
 部屋へやって来た恋人は、ユニットバスの壁に張りついた彼女を見つけると、大きな声をあげた。わたしは彼を笑った。
「怖がることなんかないわ。彼女は仲間よ」
「おい、ふざけるのはやめてくれ」
 恋人は怒りを含んだ声で言った。わたしが真面目なのを見て、さらに驚いたようだ。腕を引っ張ってベッドに座らせ、ひざまずいて下からまっすぐわたしの眼を見上げた。
「この前のことをまだ怒っているのかい。だから、こんな当てつけのようなことを?」
「違うわ、わたしは彼女を愛しているだけ」
 わたしは恋人に、風呂場で起こったことを話した。彼女がわたしの身体に登り、産卵したことをだ。
「彼女が教えてくれたの。わたしは、ただここに存在しているだけで満ち足りているのよ。生まれて初めて孤独を受け入れることができたの」
「おいおい、待ってくれよ。きみはおれがいるのに孤独だっていうのか」
「今は違う。これを見て」
 わたしはセーターを脱いで、腹に描いた複数の節を見せた。良かれと思ってしたことだったのに、予想外に恋人は絶望して頭を抱えた。
「きみはナナフシに取りつかれているよ」
 深刻な表情で吐き出すように言う。
「おれのせいだ。おれが昆虫なんか与えたから。あのとき、すぐに捨ててしまえばよかったんだ」
 わたしはなだめるつもりで、俯いた彼の頭を撫で胸元に引き寄せた。
「週末、またあの山へ行こう。あの忌々しい虫とお別れするんだ。いいね」
 恋人は身体を離して、わたしの両肩をつかんだ。
「代わりにほかのペットをプレゼントするよ。猫なんかどうだい?」
「ねえ、わたしは大丈夫よ。それに第一、このマンションで猫は飼えない」
「ウサギはどうだい? そうだ、ハムスターがいいだろう。小さくて飼いやすいし、きっと気に入るよ」
「彼女がいいの」
 わたしは首を振った。
「どうしてあなたにそれがわからないの?」
 わたしは恋人の顔を両手で挟み、引き寄せて何度も口づけをした。ベッドに横たわらせて、四つん這いで彼の身体を上って行き、両手で胸を強く押さえつけた。恋人は観念したように、目を閉じてじっとしていた。
「ねえ、知ってる? ナナフシはオスがいなくても産卵するの」
 腹にまたがったまま、彼を見下ろした。
「人間だって同じよ。男がいなくても、女は毎月産卵しているのよ。自惚れないで」
「おれのせいだ」
 恋人は目を手で覆って呻くように言った。
「おれのせいなんだ」
「泣いているの?」
 恋人は聞こえていないのか、顔を歪めたまま何も答えなかった。わたしは不安になって彼を揺さぶった。
「ねえ、なぜ泣いているのよ」
 恋人は答えずにすすり泣き続けた。まるで言葉の通じない別の種類の生き物になったみたいに。

(続く)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

毎回、吉日に更新いたします。
次話は2020年2月16日(日)です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?