グラフィックス1

ナナフシ#9

(この物語はフィクションです。今回で完結です。未読の方はよろしければナナフシ#1から順番にお読みください)
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 笹木は驚いた顔を玄関の扉から覗かせていた。眉をひそめ、警戒した草食動物のようにわたしをじっと見た。化粧をしていなかったので、あまり見られると居心地が悪かった。土曜の朝、わたしは灰色のパーカー一枚に、ジーンズといういでたちだった。その格好で電車に乗り、ここまで歩いて来たのだ。
 笹木の家はごく平凡な平屋の一戸建てだった。玄関から門までには車いす用のスロープがあり、広い庭は目隠しの生垣が生えているだけで、空の植木鉢が何個か並んでいるほかは、無愛想なほど整理整頓されていた。前日、公衆電話から会社にいる同僚のえりちゃんに電話をかけて、頭痛の検査のためにお休みする旨を伝えた。そのついでに笹木の家の住所を調べてもらったのだ。「昆虫のことを教えてもらったお礼を甥っ子から預かっているが、笹木がどうしても受け取ってくれないから、直接家に送り付けたい」と言うと、すんなりと信じてくれた。持つべきものは嘘の通じる同僚だ。
「ナナフシが死んじゃった」
 玄関の錆びた門扉に手をかけて、わたしは言った。
「はあ、そうですか」
 笹木はドアから首から上だけ出した状態で返した。どうするべきか迷っているようだ。
「とりあえず、中に入れてくれない? 寒いわ」
 笹木は嫌そうだったが、仕方なしに招き入れてくれた。家の中は暗く、しんとしていた。奥の部屋でテレビの音が聞こえていたが、人の気配はなかった。
 笹木はチェックのネルシャツの上に、緑色のカーディガンを羽織っていた。会社にいるときより幼く見え、その分とっつきやすく感じた。車いすは玄関に置いてあった。家の中では松葉づえで生活しているようだった。両腕でつえを握り、力いっぱい身体を支え、かろうじて力の入る左足で前に進んだ。右足は完全に引きずっていた。
「お母様は?」
 わたしは笹木の後ろについてゆっくり歩いた。彼は立ち止って少し振り返る。
「母はいません」
 たまたま不在なのか、亡くなったのか判別しかねる言い方だった。笹木はわたしに、居間の使いこまれた古いソファに座るよう勧めた。そばには石油式のストーブが置かれていた。天板がついていて、やかんなどが置けるタイプのものだ。
 笹木は向かいのソファに、わたしの正面を避けてドスンと座った。つえをそろえて脇に置き、リモコンを取ってテレビを消した。急に静かになり、家の前を走る車の音が響いた。
「ぜひ、そのナナフシの死がいをぼくにください」
 とうとつに笹木が言った。
「どうして?」
 わたしはパーカーの袖口をひっぱって指先を温めた。
「標本にして蒐集するんです」
「もう埋めちゃった。ナナフシが小さいころに食べてたバラの鉢植えに埋めたの。プランター葬っていうらしいよ。これからは、そのバラをナナフシだと思って大事に育てるわ」
 笹木は辟易したようすで言った。
「もったいないことをしますね。そうですか、残念です」
 その時、お腹が鳴った。ずいぶん長い音だった。朝から何も食べていないのを思い出した。
「ごめん」
 わたしはお腹を押さえて謝った。
「何か食べますか?」
 笹木はあからさまに鼻で笑ってから提案した。
「玉子焼きでも作りましょう」
 笹木はつえを取って立ち上がり、あごでついてくるように促した。キッチンへ連れていくと、わたしをテーブルに着かせ、冷蔵庫から十個入りの玉子パックを取り出して無造作にステンレスの作業台の上に置いた。キッチンはほこりっぽくはあったが、心地よい生活感が漂っている。黄緑色の古い型の冷蔵庫には、しわしわになったスーパーのチラシが貼ってあった。流し台の上の窓際に小株が連なったパキラの鉢植えが置かれ、その隣にビールの空き缶が逆さにして干されている。
 笹木はガスコンロの前に置かれたスツールに腰掛けて、菜箸を動かしていた。見事な手つきで玉子焼きパンを振り、三本の玉子焼きを焼きあげた。
 わたしたちはそれをおかずにご飯を食べた。卵焼きは柔らかく、砂糖としょうゆで味付けされていた。人に作ってもらうご飯はなんて美味しいんだろうと思った。笹木はばってんになった箸で玉子焼きを突き刺し、茶碗の上に置いてから一気にかきこんでいる。わたしたちは黙って、それはもう、もくもくと食べた。わたしが玉子焼きの一本を食べ、笹木は残りの二本を食べた。笹木は大きな茶碗に白飯を二杯分食べていた。わたしもお代わりをした。
「何か喋ってよ」
 黙りこくっている笹木に、わたしは言った。
「笹木君、喋ると面白いんだから、もっとみんなと仲良くすればいいのに」
「みんなと仲良くすることが大事だと思ってないんで」
 笹木は悪びれずに言った。
「じゃあ、笹木君は、何が大事だと思ってるの?」
「うーん、自立できているかどうかですね」
 笹木はお茶を飲みながら答える。
「自分で立てるって意味じゃないですよ」
「ひとり暮らししてるかってこと?」
「それも違います」
 笹木はぴしゃりと言った。
「感情や欲望を管理して、自分で消化し、さらに循環させることです」
「あとは単為生殖できれば完璧ってわけね」
「ええ、まあそうなりますね」
 笹木は投げやりに返答する。
「でも、それって寂しくない? ひとりで生きていくってことでしょう?」
「群れていたって寂しいんでしょう? 違いますか」
 笹木は箸を置いて、自分のとわたしの湯飲みにお茶を注いだ。
「柏木さんこそ、何かぼくに話があったんじゃないんですか? ストーカーみたいなマネして」
「謝っておきたかったの。喧嘩みたいになちゃったから。ごめんね」
「ああ、『どろぼうネコ』?」
「そう、『どろぼうネコ』」
 笹木はそれ以上、何も訊ねてこなかった。淹れてもらったお茶は、茶葉の量を間違えているのか、とても渋かった。でもその垢抜けなさが、今はちょうどよかった。
「それとわたし、しばらく有休を消化しようと思うから、口裏合わせといてね。そうだな、インフルエンザってことでお願い」
「あなただけが責められるのはおかしいと思いますよ」
 笹木が柄にもなく怒ったように言うので、わたしは拍子抜けしてしまった。
「違う違う。色々、ちゃんと片付けたいなと思って」
「そんなことなら、電話でよかったじゃないですか」
「自立できてないから」
 笹木は片方の眉を上げて、あからさまな溜息を吐いた。
「ま、ぼくにはどうでもいいことです」
 わたしは椅子の背もたれに身体を預け、パーカーのポケットに手を入れた。その指先に触れた冷たい物を取り出した。かつて小さかったナナフシを入れていたジャムの瓶だった。
「あと、これを貰ってほしくて」
 わたしは笹木の前にそれを置いた。笹木は不思議そうに目を細め、瓶を取り上げて蛍光灯の光にかざした。
「いったいなんですか?」
「ナナフシの卵なんだけど」
「……なんと!」
 笹木は年相応の活気を頬に表し、目を輝かせた。開けていいかと訊ねてから、瓶の中身を手の平に載せ、真剣な表情でためつすがめつ眺める。もうわたしなど見えていないかのように、ナナフシの卵に向かってぶつぶつと語りかけた。この形は一般的なナナフシの種類だな。今孵化させると寒いから、しばらくは冷蔵庫に入れておこう……。
 わたしはその姿がおかしくて、つい笑ってしまった。笑いだすと止まらなくなり、目じりから涙がこぼれ出した。笹木は眉の間にしわを寄せた。
「泣いてるんですか? そういうのは家に帰ってからにしてくださいよ」
「泣いてなんかない。笑っているの」
 わたしは頬をぬぐいながら言い張った。
「あなたがどう言おうと、これがわたしの笑い方なの」
「泣いているように見えますけど?」
 笹木は不服そうに首をひねりながら、ナナフシの卵を大事そうに手の平から瓶に戻し、慎重に蓋を閉めた。
 わたしのナナフシの卵はきっと上手に孵化するだろう。孵化した子どもは笹木が飼っているほかのナナフシと一緒の虫かごに入れられて、賑やかに暮らすのかもしれない。そして彼女もまた卵を産み、死んだあとは標本にされるに違いない。でもまあ、それも悪くない。
「ねえ知ってる? 笹木君の笑い方も引きつってるみたいにしか見えないんだよ」
 わたしはそう言って、顔の片方を引きつらせる独特の笑いをマネして見せた。
「あなたの前で笑ったことなんてありません」
 笹木は顔を引きつらせ、やっぱり笑っているようには見えない表情で、たしかに笑った。

(了)

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