グラフィックス1

ナナフシ#8

(この物語はフィクションです。数回に分けて完結させる予定で、今回は第8話です。未読の方はよろしければナナフシ#1から順番にお読みください)
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 マンションの部屋へ戻ると、荷物も置かずにまっすぐ浴室へ向かった。バッグをトイレの蓋の上に放るように置き、洗面台に栓をして水を溜める。溜まるのを待つあいだ、白い陶器製のふちに両手をついて鏡に目をやった。鏡の中の女は髪が乱れ、化粧が剥げて幼い子どものように見える。いたずらを咎められてすねている女の子のようだ。だけど、わたしはもう子どもではなかった。叱って諭してくれる人も、許して慰めてくれる人もいない。罰して悟って、受け入れて片をつけること。それらをぜんぶ、自分一人でしなければならない。明日には、何もなかったかのような顔をして笑っていなければいけない。
 ナナフシが鏡のふちにつかまって、じっとこちらのようすを見ていた。わたしは彼女に告げた。
「心配しなくていいの。ちゃんと終わらせられるし、これまでと何も変わらないよ」
 彼女は肯定とも否定とも取れない返答の代わりに右足を少し動かした。鏡のふちを探るようになぞったその足は、まだ左よりも短い。
 バッグをまさぐって携帯電話を探すが、すぐには見つからない。もどかしくなって逆さにして振り、中身をすべて水の溜まった洗面台にぶちまけた。騒がしい音が浴室に響いて、制服のスカートに水しぶきがかかった。そのとき、音に驚いたのか、鏡にいたナナフシがふいに飛び跳ねて、蛇口のコックの上に舞い降りた。透明なプラスチック製のそれは、着地するには不都合だった。長い脚でつかまろうともがいたが、態勢を崩してほとばしる水の上に落ちた。
 ナナフシは携帯電話やヘアクリップやハンカチや化粧ポーチと一緒に蛇口から落ちる水が作る波紋の下に沈んだ。慌てて水を止め、それらをかき分けて探し当て、そっと掬い上げた。彼女はびしょぬれになり、力なく手の平に張りついた。タオルをトイレの蓋の上に敷き、ぐったりした彼女を載せる。しばらく見守っていても、足を折りたたんだままじっと横たわって立ち上がろうとしない。あえぐように触角を動かすようすを見て、彼女がとても苦しんでいるのがわかった。もう助からないだろうことも、わたしが何をするべきかもわかった。
 とっさに洗面台の上に載っていたハンドソープを手に取った。しかし適当ではないと思い、いったんユニットバスを出て、玄関の靴箱から道具入れを引っ張り出した。その中で、引っ越しのとき家具を組み立てるのに使ったプラスチック製の金槌を選んで戻った。
 一瞬で終わるように、彼女の胸部に狙いを定めて金槌を振りおろした。ナナフシの細長い身体は真っ二つに折れてつぶれた。かすかに痙攣している手脚が恐ろしくて、必死で叩きつぶした。茶色い体液が飛び、内臓がはみだした。悲鳴もあげず、逃げることもせず、ナナフシは自分の最期をすんなりと受け入れた。
 わたしは金槌を落とし、その場に座り込んだ。ばらばらになった彼女の身体を丁寧にタオルで包んで手繰り寄せ、頬を押しつけた。受け入れて片をつける? 何もなかったように笑う? そんなことできない。できるわけがない。わたしはもう子どもではないけれど、一人で上手く生きることなんてできない。ナナフシにはなれない。
 タオルについた水滴がにじんで大きく広がっていくのを見てようやく、自分が泣いていることに気がついた。いつの間に唇が切れたのか、こぼれおちる唾液に血が混じっていた。
 わたしはいつか恋人と交わした会話を反芻していた。おれに何を望む? 何も。ただ覚えていてほしいだけよ。

(続く)

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毎回、吉日に更新いたします。
次話は2020年2月21日(金)です。

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