ナナフシ#7

(この物語はフィクションです。数回に分けて完結させる予定で、今回は第7話です。未読の方はよろしければナナフシ#1から順番にお読みください)
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 朝から頭痛がしていた。恋人が、山へ行く約束のメールをよこしていたが、わたしは返事できずにいた。なぜ、ナナフシを捨てるなどと言えるのかがわからない。彼が与えてわたしが育てたものなのに。
 肩を叩かれ、顔を上げると同僚が財布を持って立っていた。いつの間にか昼休みになっていたようだ。同じフロアの社員たちのほとんどがデスクを片付け席を空けている。
「どうしたの? お昼に行くよ」
 同僚は肩に手を置いたまま、わたしの顔を覗きこんだ。
「あんた大丈夫? 顔色が悪いよ」
「頭が痛いのよ」
 引き出しを開けると、頭痛薬は空になっていた。
「えりちゃん、頭痛薬持ってない?」
「ごめん、あたし、頭痛くなったりしないんだ。買ってきてあげようか?」
「大丈夫。薬局へ行くわ」
 わたしはのろのろと席を立った。
 同僚と別れ、コートを取りに更衣室へ行った。わたしのロッカーは、鍵をかけたはずなのに扉が開いていた。中に入れてあった着替えや荷物などが全て引っ張り出され、床にばらまかれていた。荷物を拾い上げてロッカーの中を見ると、鏡の部分にA4のコピー用紙が貼ってあった。そこには、マジックで『どろぼうネコ』と走り書きしてあった。
 みぞおちのあたりがすっと冷たくなった。そのあとすぐに灼けるように熱くなった。わたしは紙を引きはがして、食堂へ向かった。いつもの席で食事をしている笹木の前にその紙を叩きつけた。
「これ、どういうことよ?」
 笹木は目を丸くしてわたしを見た。彼はめずらしくわたしの眼をまっすぐ見ていた。
「あなたがばらしたの?」
「何のことでしょう?」
 笹木は首をひねりながら、人差し指で紙を引き寄せた。
「しらばっくれないで。あなたにしか話していないのよ。信頼していたのに、ばらすなんて卑怯だわ」
「ちょっと待ってください。何の話かわからないし、こんなもの知りません」
 笹木はテーブルの上の紙を指で押し返した。わたしは笹木の姿をまじまじと見た。食べかけのうどんと親子丼がトレイの上に載っていた。ばってんの箸を持つ手が、かすかに震えていた。
「心外です。ぼくは言ったはずです。そもそもあなたのことは、ぼくにはなんの関係もないって」
 笹木は珍しく顔色に動揺を隠さず、早口でまくし立てるように言った。
「あなたのことを周囲に噂する理由もないし、ばらしただろうと責められるいわれもない。そもそも、ぼくは他人の秘密を、ひそひそ噂し合うような友人を一人も持っていませんから」
 わたしは何と言い返していいかわからなくなった。確かに、その通りだと思った。混乱していたのだ。なぜか、関係のない昔のことが思い出された。笹木の入社当時、周りと一緒になって彼の噂話を楽しんでいたこと。
「もういいでしょう? 不愉快です。二度と話しかけないでください」
 笹木はそう言って首を振り、わたしが視界に入らないようにうつむいて、食事を続けた。食堂にいた社員に注目されていることに気づいた。逃げるように食堂をでて、女子トイレに入った。
 心臓が割れそうなほど高鳴り、それに合わせてこめかみもどくどくと痛みをともなって脈打った。洗面台に水を落とし、化粧が落ちるのも構わず顔を洗った。ふいにとなりに人が立つ気配がした。水を止めると、ハンカチが差しだされた。あの日、恋人とカフェにいた女性社員だった。
「柏木さん、大丈夫ですか? 具合でも悪いんですか?」
 なぜ、わたしの名を知っているんだろうと思った。そしてすぐ理解した。
「あなたなのね」
 彼女はやけに黒目の大きい目を丸く見開き、すべてを手にしたかのような、満足げな微笑みを口元に浮かべていた。
「柏木さんはずるい人ですね。だって、主任をひとり占めして」
 彼女は悪びれるふうもなく静かに言った。彼女の澄んだ声はひどく冷たく響いた。
「そもそも、主任は、奥さんのものなんですよ。かわいい娘さんもいるんです。かわいい娘さんのお父さんを、汚い不倫男にしたのはあなたです」
「わたしだけが悪いって言うの?」
 わたしは言った。唇が震えて、声も裏返っていた。喧嘩するには不利な状態だが、そんなことに構っていられなかった。
「彼は進んでわたしの部屋に来るのよ。わたしが強いているわけでなく、彼の意志で来るの。彼が汚い不倫男だとしたら、そうね、もともとそういう人なのよ」
 彼女は少し傷ついた顔をした。
「だとしたら、相手が柏木さんじゃなくてもいいですよね?」
「何が言いたいのよ」
「わたしが主任をひとり占めしたいです。いいですよね?」
 わたしは泣くのを必死にこらえていた。いや、もう泣いていたかもしれない。顔が水で濡れたままなのは好都合だった。わたしは急にこの状況が滑稽に思えた。重ねて食堂での笹木の顔を思い出した。いつも憮然とした笹木の、慌てた顔。取り乱したようす。思わず吹き出してしまった。
「なぜ笑ってるんですか?」
 彼女は顔を歪めた。その表情はあまりに残酷で露骨だった。美しいとさえ感じられた。わたしにはわかる。彼女も苦しいのだ。
「原爆を落とせばいいんだわ」
 わたしはつぶやいた。
「知ればいいの。もっと苦しいわよ」
 彼女は意味を測りかねたようすで黙った。わたしは、彼女を押しのけてトイレを出た。袖口で顔をぬぐいながら更衣室に向かった。床に散らばったままの私物を紙袋に詰めた。いつかこうなることはわかっていた。だから、やるべきことは決まっていた。
 制服の上にコートを着て、エレベーターに乗った。頭上の階数表示は点滅しながら減少していく。それはわたし自身のタイムリミットを示しているようで皮肉だ。3・2・1。タイムオーバー。

(続く)

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毎回、吉日に更新いたします。
次話は2020年2月17日(月)です。

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