たばこ(6)
※同性同士の恋愛描写含みます。
それから一週間後のことだった。翌日一限の火曜の夜に、佐原は僕の家にやってきた。
「ナオ、聞いてよ。昨日、彼女にふられちゃった」
佐原はスマホの画面をスクロールしながら、何気なく言った。
「藤野さん?」
僕は聞き返す。
「うん、そう。LINEで別れよって」
あぁそうか、と納得のような気持ちと、藤野さんへの同情の気持ち。
そしてあさましくも、佐原が別れたことをうれしいと思う気持ちが心の底に生まれていた。
「理由は?」
「さあ。向こうも言わなかったし、聞いてない」
「ほんと、来るもの拒まず、去る者追わずだな」
少し皮肉を込めて言った。嫌な言い方になってしまったのが自分でもわかった。
「いや、別に誰でもいいわけじゃないよ。去ってく人は追わないけど。だって、好きになるのは理屈じゃないじゃん。だったら冷めるときも、明確な理由なんてないと思うんだよ。引き留めたってどうこうなるもんじゃない」
佐原は手元の缶ビールをあおり、持論だけどね、と付け足した。佐原の置いた缶が軽い音を立てる。
「全然辛そうに見えないな」
僕は足元にあった缶を、適当に一つ取って手渡した。
「よく言われる。これでも傷ついてんだけどなあ」
佐原が栓を開け、プシュッと炭酸の抜ける音がする。
そういうところだろうな、と思う。絶対にありえない妄想だけど、もし自分が佐原と付き合って、こんなにもあっさりと見捨てられたらと思うと、胸がきゅっと痛くなる。
意中の人と付き合うことが叶わない辛さと、付き合ってその好意の重さの違いを肌で感じる辛さ。それらを天秤にかけることはできないが、きっとどちらも時を重ねるごとに苦しくなっていくのだろう。
「俺、自分で言うのもなんだけど、結構モテんだよね。けど、最後はいつも俺が振られんの」
「かわいそうだな」
そういって、軽く笑って見せた。
こいつなんかを好きになったやつは大変だ。だって、こいつは自覚がない。自分が振られる理由がわかっていないのだ。
その日はまだ、2缶目を開けたばかりだった。いつもより少し酒のまわりが早い。ぼうっとする頭で空いた缶の文字をなぞった。
「ナオ、俺が別れて嬉しいだろ」
佐原が唐突にそう言った。缶をなぞる手が止まる。
「……は?」
「だってお前、俺のこと好きだろ」
その言葉で、脳内がさっとホワイトアウトする。全身が心臓になったみたいに脈打ちはじめ、思考が遠のいた。
佐原は、僕の好意に気がついていたのだ。
「な、なんで」
僕の片手が空の缶チューハイにあたり、カランと床に転がる。それを拾おうとして視線を落とすと、佐原はぱっと僕の手首をつかんだ。
「わかるよ、そんなの」
逃がさない、と言われているようだった。
「ナオ、酔うと本音隠せなくなるもんな。俺が一番長く付き合ってた彼女と別れたとき、もう誰とも付き合わないでって泣いただろ」
——1番長く付き合ったのはたしか、あの3番目の彼女だ。けれど僕はその夜の記憶がない。
「知らない」
力なくかぶりを振る。
「初めてナオんちに友達連れてきたときもな。二人のみになった瞬間、俺と二人のがいいって、誰か連れてくるならもう飲まないって駄々こねたもんな」
——佐原が友達を家に連れてきたのは一回だけ。でも、その日の記憶も全てあるわけじゃない。
「……知らない」
声が掠れた。佐原の手から逃れようとするも、力がこもらない。
僕は恥ずかしさで今すぐ消えてしまいたくなった。
佐原はうそつきだ。翌朝聞けば、いつも「全然普通だったよ」っていうくせに、僕は何度も何度も醜態をさらしてきたのだ。佐原にとって、僕はどんなふうに映っていただろう。そんな僕の恥ずかしい姿を見て、心では笑っていたのだろうか。
「お前は翌朝には全部忘れてんだよな。今日のこれも、お前は忘れんのかな」
佐原は寂しそうに言った。
「酔えずに言えたらいいのにな。お前とは、ほんとは宅飲み以外のこともしてみたい。でもお前はたぶん、俺みたいなのに学校で話しかけられるのもヤだよな。どんなとこに連れていったら喜んでくれるのかも、俺にはわからない。連れ出すための口実も、今はまだないから」
佐原は、ナオ、と甘ったるい声で僕を呼んだ。僕の知ってる佐原は、そんな声で僕を呼ばない。全身がしびれるような感覚に襲われる。
「俺と付き合う?」
そう言った佐原の顔は、不覚にも、今までで一番かっこよく見えた。自分がイケメンだとわかっているやつの表情。どんなふうに微笑んで、どんな甘い声をかければ、女が落とせるかをよくわかっている。
「でも僕、男だし」
お前とは釣り合わないし。趣味も合わないし。面白い話もできないし。言葉にならないほどの「でも」が一気に降り積もる。
「男でも女でも関係ないよ。俺、バイだもん」
——バイ。バイセクシャル。回らない頭で、その言葉を繰り返した。
こんなやつと恋人になったところで辛いだけだ。ほかの女と同じで、二か月もたてば簡単に捨てられて、僕だけが苦しむことになる。こいつはこれまで通り友達でいようとか言いだすかもしれないけど、僕は絶対に友達には戻れない。
友達でいれば、ずっと隣にいられるかもしれないのに。
嫌だ。そう口にしようと喉に力を込めるのに、声にならない。
今断れば、こいつは違う恋人をすぐさま見つけてくるだろう。今までもそうだった。別れてから一週間もたたずに、新しい女と付き合い始める。僕はそのとき、後悔せずにいられるだろうか。また、家でひとり涙をこぼすことになるんじゃないだろうか。
僕はもう、あんなつらい夜を過ごしたくはなかった。
「……付き合い、たい」
消え入りそうなほど、小さな声で答えた。
テーブルがガタンと動く。佐原が、僕らの間を隔てるテーブルを横に思い切りずらしたのだった。驚いて顔を上げた僕の視界が、佐原のパーカーの生地に覆われる。佐原の腕が僕の背中に回る。
佐原んちの洗剤の匂いと、シトラス系の香水の香り。そして、たばこの苦い匂い。
「くるしい」
僕が言うと、佐原は腕を緩め、僕の両頬を包んだ。
「ナオの顔、あっついな」
「酒、飲んだから」
顔がほてっている理由は、たぶんそれだけじゃないけれど。
「ナオはいつもそう。酒飲んだら、体温が高くなる」
佐原の顔が近づく。額に、瞼に、頬に、ついばむようなキスをおとされ、僕は固く目を閉じた。そっと唇に柔らかい感触が触れて、キスの雨が止む。おそるおそる目を開くと、すぐ間近に佐原の顔があって「口開けて」とささやいた。
冷静になればどういう意味かはすぐに分かったはずだけど、僕はすでにいっぱいいっぱいだった。ただ言われるまま、「あ」と歯科医師さんに見せるみたいにぱかりと口を開けた。
「ばーか」
佐原は、一瞬くらっとするような熱っぽい笑みを向けたかと思うと、僕の口を自分の口でふさいだ。佐原の舌が僕の口内に入り込んできて、反射的に体がびくりとする。僕の口の中をうごめく熱いものが、佐原の舌だということが信じられない。
僕は何も考えられなくなって、すがりつくように佐原のパーカーの裾を握った。うまく息ができなくて、子どもがぐずるときみたいな変な声が漏れた。
佐原が顔を離し、吐息のかかる距離で微笑んだ。
「息、鼻から抜くんだよ。できる?」
乱れる呼吸を整えながら、うなずいた。口の端からからつーっと唾液が垂れ、慌ててぬぐおうとするも、両腕を封じられる。
「ナオ、もっかい」
ぽすっとベッドに押し倒され、また、佐原の匂いに包まれる。ふわふわする頭で、もしこれが夢なら、永遠に醒めなければいいなと願った。
翌朝、ベランダの窓から差し込む朝の光と、涼しい風に頬を撫でられ、おだやかな感覚の中で目が覚めた。
「おはよ」
佐原が、カーテンの向こうで振り返った。
昨日の記憶が、一気にぶわりとあふれ出してきて、僕はまた布団のなかにもぐりこんだ。
夢じゃないよな。佐原と僕は恋人同士でいいんだよな。昨晩さんざん悩みぬいたくせに、あらためて恋人であることを自覚すると、満ち足りた気持ちになる。もう友達には戻れないのに。
扉が閉まる音がして、ひたひたと足音が近づいてくる。
「昨日のこと、覚えてる?」
すぐそばで、佐原の声がした。
「……覚えてる」
「よかった」
佐原の声が柔らかくなる。佐原にとっても、俺と付き合えたことはうれしいことなんだとわかると、途端に心臓がどくんどくんと音を立て始めた。
かぶっていた布団がはがされ、視界が明るくなる。僕は逃げるように佐原に背を向け、小さくなる。情けない顔を見られたくはなかった。
「いいこと教えてやろっか」
「なに」
佐原が、僕の肩をぐいと引いた。とっさのことで抵抗もできず、あっさりとベッドにあおむけになった。
佐原は、まるでいたずらに成功した子供みたいな、楽しそうな表情を浮かべている。
センターパートの長い前髪が揺れ、佐原の顔が近づく。キスされるのかもしれないと思い、きゅっと目をつむった。
「キスしたの、昨日が初めてじゃないよ」
耳元でささやかれ、僕はうっすらと目を開けた。
「……いつ」
「お前が寝てるとき。初めていつしたかは、あんまり覚えてないな。お前、いつも机に突っ伏して寝んだもん。ベッドに寝かせてやってんの、誰だと思う?」
僕のファーストキスは、意識のない間にすでに奪われていたらしい。しかも何回も。そのくせ、朝には何も知らないふりで「おはよう」と言っていたのだ。むしろ、記憶がなくなってしまう僕よりもよっぽどタチが悪いだろ。
「サイテー」
「ははっ、もっかい言って?」
窓から差し込む光がまぶしい。自分の顔が熱を持ち始めるのを感じて、僕はまた布団をかぶった。
たばこ(7)へ続く
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