見出し画像

たばこ(7)

 交際をはじめると、佐原は僕のアパートで一緒に住みたいと言い出した。
 佐原は実家通いだが、実際のところあまり家には帰っておらず、人の家に寝泊まりしたり、適当に安いラブホテルやネカフェに泊まったりすることが多いようだった。
 一人暮らし用のアパートを借りているから、ルームシェアは基本NGのはずだが、「そんなんばれねーよ」という佐原に結局押し切られてしまった。

 こいつとは趣味嗜好どころか、生活リズムも金銭感覚もまるで合わない。共同生活には不安があったが、それよりも、佐原が人の家やホテルに寝泊まりといしているという事実の方が不安でならなかった。 
 こいつは常に何人ものセフレがいる。恋人がいようとも、裏ではかまわずセフレと寝ているような男だ。人脈の広いこいつの行く先なんて把握しきれはしないけど、それでもリスクは少しでも減らしておきたかった。

 佐原は友人から車を借り、同居するために必要そうな荷物を運びこんできた。僕はまだ車の免許をもっていなかったが、佐原は高3の夏にはすでに免許を取っていたらしい。慣れた手つきでバック駐車するのを見て、感心してしまった。
 こいつの持ち込んだ荷物は、ほとんどが服だった。軽い段ボールを何箱か部屋に運び込む。収納用の安いチェストは、この後二人で買いに行く予定だった。

「恋人と同居すんのは実は初めてなんだよなー」
 部屋の隅に積まれた段ボールを眺めながら、佐原が言った。
「今までの彼女とは?」
「うーん、シンプルに共同生活まではやだなって思ってた」
 少し驚いて、佐原を見る。こいつみたいなやつは、常時人といないと落ち着かない性分なのかと思っていた。
「意外だな。人の家には簡単に上がり込むくせに」
「一晩家借りるのはよくても、ずっと一緒にいられるかどうかはまた別だろ?」
 その言葉を聞いて、僕も決意を固めなければと思った。無言で引き出しの奥をあさり始める。
 佐原は興味津々に後ろからそれを覗き込んでいた。
「手、出して」
 振り返ると、きょとんとした顔で佐原は手を差し出していた。その手のひらの上に、冷たい金属のそれをそっと置く。
 重ねた手を離す前に、チャリン、という音ですぐにそれが何か察したらしい。佐原はぱっと表情を明るくし、僕を思い切り抱きしめた。
 それは、僕のアパートの合鍵だった。
「やった、ナオ全然渡してくんないんだもん」
 こいつは力加減をしらない。胸の中で窒息しそうになりながら、もぞもぞと抵抗し、背中を叩いた。佐原は腕の力を緩めると、前髪の上からそっと額にキスを落とした。
 佐原は僕のアパートの合鍵をずっと欲しがっていたけど、「無くした」だの「めんどくさい」だの適当に誤魔化して、今日までやり過ごしてきた。
 いつもなんの気なしに佐原は家に乗り込んできたけど、僕にとってはそうじゃない。家にくると連絡をよこしてから、部屋を掃除し直して、意味もなくそわそわして。女じゃないからメイク直しとかはいらないけど、それでも心の準備は必要だった。
 チャイムが鳴って、インターホン越しに佐原が僕の名前を呼んで。一つ深呼吸をしてからいつも玄関を開けていた。

「一応、言っておくけど」
「なに?」
 佐原はキーホルダーリングに指を突っ込み、上機嫌に鍵をくるくるとまわしている。
「女はうちに連れ込まないこと」
「オーケー。友達でもだめ?」
「だめ。男友達も正直やめてほしい。よっぽどじゃない限り、居座らせないでほしい」
「りょーかい。ここはナオんちだしね」
 佐原はにこっとさわやかスマイルを浮かべ、鍵をポケットに突っ込んだ。
「それから……」
 僕が言いよどむと、佐原はぐいっと顔を近づけてくる。一歩下がって、おずおずと口にした。
「……セフレとも、僕と付き合ってる間は会わないでほしい」
「うん、ナオが嫌がるから会わないようにする」
 佐原は軽い口調でさらりと答えた。
てきとうに流されたんだとすぐに分かった。僕の決死の覚悟が馬鹿みたいだ。
「そういってもどうせ寝るんだろうけど、一応言っとく」
「信用ないなあ。俺、嘘はつかないよ」
 恋人がいる間もほかの女と寝ていたのは知っている。信用なんてあるわけがない。でもそれをわかっていて、恋人になることを選んだのだから、結局は僕が折れて付き合っていくしかないのだろう。

 部屋の片づけはそこそこに、借りた車でIKEAに向かった。
 佐原は、Bluetoothでスマホをつないで、お気に入りのプレイリストの曲を流す。曲の情報はディスプレイに表示されていたけれど、曲名どころかアーティスト名すら知らないものばかりだった。
 佐原はハンドルを握りながら、流暢に英語の歌詞を口ずさむ。僕は、窓から入り込む風を頬に受けながら、その横顔を見つめた。
 佐原とはじめて話した時、自分はオンチなんだとか言っていたけれど、まったくそんな風には聞こえない。むしろ歌は僕より断然うまい。
 やっぱりこいつの発する言葉は、端から端まで嘘ばっかりだな、と思う。

 店に着き、お目当てのチェストを選んだあとは、こまごまとした生活雑貨を探した。タオル、カトラリー、フードキーパー、収納ボックス。佐原は大きなカートの中に、手あたりしだいポンポンといろんな商品を詰め込んでいった。
「なあ、どっちがいいと思う?」
 佐原は、サメとクマの抱き枕を両手に抱え、見比べている。
「そんなのいらないだろ」
 僕は、聞こえよがしにため息をつく。
「まぁそうだな。こんなの置いたら狭くてナオと寝れねぇもんな」
「お前は布団があるだろ」
「なんで。普通、恋人なら一緒に寝るだろ。確かに男二人で寝るには狭いけど。どうせなら、ベッド新調する?」
「しない。とっくに予算オーバーだ。買うなら自腹だからな、割り勘はしない」
「もちろん俺が金出すよ。一番安いのならワンチャンいけそうじゃね?」
「本気で言ってんのかよ。ベッドだけじゃなくて、マットレスとかカバーとか諸々必要なんだぞ」
「いけるいける。俺、めちゃくちゃ稼いでるから」
 一度、こいつの口座の残高を見せてもらったことがある。大学生が稼いでいるとは到底思えない額だった。どこでこんなに稼いでいるのかと聞いたら、キャバのボーイやバーテンのヘルプだと言っていた気がする。メインのバイトは高級焼き肉店だったはずだが、そこもかなり時給が高かった。
 恋人なのに別々の場所で寝るのは、確かに寂しい。ベッドも買いなおすべきだろうかと悶々と悩んでいると、いつのまにか佐原は奥の食器コーナーの方を眺めていた。
 相変わらずマイペースだなと思いながら、佐原のもとまでカートを押していく。
「ナオ、これよくね?」
 佐原は、陳列棚からグラスの見本をひとつ取り、僕に見せる。
 そのグラスは、透明なガラスの壁の内側に、もう一層ガラスの壁がある。注いだ飲み物がテーブルから浮いているかのように見える、いわゆるダブルウォールグラスというやつだった。
「保冷、保温機能が高くて、グラスに水滴もつかないんだってさ」
「それはいいな」
「二個セットだって。いっこナオのな」
 そういいながら、佐原は箱売りのグラスをカートに入れた。
「サイコーだな。これからは毎日家に帰ればナオがいて、毎日一緒に酒飲めるんだ」
 佐原はポケットに手を突っ込み、カートの少し前を歩く。
「毎日はキツい。せめて週3くらいにしてほしい」
「別に酒なんてなくたっていいんだよ。一緒に飯食って、テレビとか見て、同じベッドで寝んの。フツーにうれしい」
 佐原はジャケットをふわりと翻し、振り返る。その無邪気な笑顔には一点の曇りもない。
 僕とはまるで違う世界の人間。やっぱ、夢なんじゃないかな。だって、佐原は頭からつま先までアホみたいにかっこいい。なんでそんなやつが、僕に甘い笑顔を向けるんだろう。神様がどこかで、ボタンを掛け違えたんじゃないだろうか。
「……なんで僕なんか」
 ぐっと抑え込んでいた言葉を取りこぼしてしまった。言うはずのない言葉だった。
「え?」
 佐原が聞き返す。いや、と言葉を濁すと、佐原はふっと頬を緩め、何かを言おうとした。ゆっくり開かれる口元を見つめていると、すぐ真後ろから声がした。
「樹じゃん」
 振り向くと、ストリート系の服装に身を包んだ体格のいい男と、ひょろりと長い男がいる。ふたりとも、たしかテニスサークルのメンバーだったはずだ。
「へぇ、お前ら仲良いんだ」
「なんか意外な組み合わせだよな」
 そいつらは意味深に顔を見合わせ、冷えた笑みを浮かべあった。耳障りの悪くない言葉を使っているが、言外に嫌なニュアンスが読み取れた。
「別に意外でともねえと思うけど。俺らルームシェアすんだよね。だから今、ここで買い物してんの」
 佐原が、あっけらかんと言った。
「え、まじ。お前人とは一緒に住めねえって、彼女との同棲も断ってたじゃんか」
 体格がいい方の男が、大げさな反応をする。
 彼女と同棲したことはないというのは本当だったらしい。僕にはさらりと同居の話を持ちたけてきたので、適当にうそぶいているのかと思っていた。
「うん、でもナオとならいけるかなって」
 佐原は、優しい笑みを俺に向けてくる。
 舞い上がりそうになる気持ちを抑え込み、感情を殺した声で「うん、まあ」と答えた。
 はやくこの場から抜け出したかった。このふたりは、佐原と話がしたいだけで、別に僕には興味はないはずだ。
 カートを押して少し離れた場所の陳列棚を見に行こうとすると、佐原に肩をつかまれ、ぎゅっと引き寄せられる。
「あぁそう、そのことで言おうと思ってたんだけど」
 はっとして、佐原の顔を見上げる。
「実はさ、俺ら――」
 どくんと心臓が跳ねる。佐原が何を言おうとしてるのか、一瞬にして察した。僕は佐原の服の裾をひき、ふるふると首を振った。
 佐原は眉根を寄せ「なんで」と訊く。僕は首を横に振るだけだ。
 ――俺ら、付き合ったんだ。
 もしそんなことを言ったら、お前の友達はどんな反応を見せるだろう。
 これまでだって、佐原が僕と昼飯を食べたいといっただけで、取り巻きの奴らにうとましげな表情でみられた。今だって、向かいの二人の表情からは、なんでこんなやつといるのかとでも言いたげなマイナスの感情がありありと見て取れる。なんでこんな空気の中、そんなカミングアウトができると思うんだ。
 お前はいつもよく人を見ていて、さりげなく気を回せるのに、なんでこういうことだけはわからないんだ。

 ふいに藤野さんの言葉が、脳裏に浮かぶ。
 ――樹って、誰にでも優しいの。樹からすれば、みーんなおんなじ平らな地面の上に立ってるように見えるんだろうね。
 すとんと藤野さんの言葉の意味が、胸に落ちてくる。

 僕の顔から血の気がひいているのを察してか、佐原はひとつ息を吐くと、笑顔を作り直して向かいの二人に言った。
「いや、やっぱなんでもないわ。じゃーな、また次のサークルで会おうぜ」
 ふたりは、少し戸惑いの表情を浮かべながらも、「おう」「またな」と手を上げる。
「ナオ、行こ」
 佐原が言い、何事もなかったかのように、買い物は再開された。

 結局、ベッドを新調するという話はなくなった。今のベッドを廃棄する手続きが面倒だったし、なにより、両親や知り合いが家に訪れたとき、彼女もいないのにダブルベッドである理由が説明できないからだ。
 佐原は当然のように友人にカミングアウトしようとしたけど、僕は、初めてできた恋人が男だなんて、誰にも言える気がしなかった。
 妥協案として、リクライニング式の安いソファベッドを買うことになった。ソファなら僕も使うから金を出すといったが、佐原は結局一人で買ってしまった。

 その夜、佐原は「おやすみ」と言った後、僕に背を向けて布団をかぶった。ほんの少し空いたソファベッドとベッドとの隙間が、ひどくもどかしく思えた。
「佐原、ごめん」
 僕は、夜の静けさになじむような声で、そっと告げた。
「なにが?」
 暗がりのなか、佐原が振り向く気配があった。優しい声音に、鼻の奥がつんとする。
「……なんでもない」
 今度は僕が背を向けた。しばらくすると足音が近づいてきて、ベッドがわずかに沈んだ。
 買ったばかりの嗅ぎなれないシャンプーの香りがする。すっと布団がめくられ、後ろから抱きしめられる。佐原の温もりを背中に感じた。僕のつむじあたりに、佐原の鼻がぎゅっと押し当てられる。
 僕らは、互いに言葉を交わさなかった。ゆっくりと眠りに落ちてゆくまで、僕は佐原の穏やかな呼吸音を聞いていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?