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もうすぐ春、ですか。

こんにちは。おさんぽです。皆様、元気でお過ごしですか?

薬局では、風邪ひきさん が増えてきました。
胃腸風邪の方も、多いようです。春になる前の、変わりやすい季節
ですからね。くれぐれもご注意を。 
さて、
今回は、以前から興味を持っていた「学び」を考えた件です。
自分の仕事の話は、無し、自分の話は、ちょっとはするかな。

ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田裕之訳 (河出書房新社)
「サピエンス全史」を読書中です。
ミリオンセラーですから、多くの方が既にお読みになっているでしょう。
「人類」ではなくて「サピエンス」
興味深いです。
光るまでに磨かれ、放たれた言葉たちに 毎度引き込まれ、つい夜更かし。
一文を紹介しますと

学者は自分が答えられる 目処の立つ疑問だけを 投げかけがちだ。
~(上) 沈黙の帳より

答えがあっての問い。
「卵か鶏か?」、なのかもしれない。

考える材料も、考えてきた、その道の上にある。問いも答えも。
空っぽ の頭からは 「問」さえ 生まれない。

私達は、主に学校で学ぶ。
学校における「問」と「答」についてちょっと考えてみました。

白キノコ

私の知っている 日本の学校教育のイメージだけど 
「問われたこと」に応えようと 
必死で覚える。考え方のレールも 到達目標も ほぼ決まっている。
正解はある。それが ‟普通“。
その中で、
ユニークで、個性的な 出題者が思いもしなかったような解を、お返しするのは いけないこと みたいです。
そこから、さらなる「問い」を作り出し、あるいは提案する、なんて生徒は
めんどくさいし、 
少なくとも 現実にある試験の類は 正解でなければ、0点となって やばいですよね。

試験は、出題者との意見交換ではない。
「問に答えなさい。」さもなくば
「馬鹿にしてんのか!」と怒られる、それは十分に想像できる。

これができなければ定型でない、こういう答えを導かなければ、先に進めません、って なんか かなり簡単に言うと
下書きをなぞることがよくできました、ってこと みたいですね。

教育者に対する批判ではありません。
だって、この「下書き」は人類の大いなる遺産、知るべき常識であり
今後生きていく為に 必要なことの 最初のとこ ですから。

学校とは 教わる場で、社会経験をするところ。

日本国中に遍く義務教育が普及し、私達が安心して学校に行ける、行かせられることは 間違いなく とても有難いことです。
なのですが、
コロナもあって
一時期学校も閉鎖されたり、行事もなくなったりで 学生さん自身からも
学校で学ぶこと、入試制度について 色々な意見発出がありましたよね。 

私は、なにも知らない素人です、婆さんです。ですから 大いに勘違いしているかもしれませんが、
もし、学校で 子どもたちが 「下書き」の塗り絵だけに勤しみ、レールから外れた、素朴な疑問を投げかけられない としたら

そして、もし先生たちが「下書き」のことしか考えてなかったとしたら、
生徒の管理やら、あれしたこれした系の報告に追われているのなら、

今、変わっていくチャンスなんじゃないか、と思うんです。

前出の「サピエンス全史」の中の「沈黙の帳」で、(私の勝手な要約で、すみません)
人類史において わからない事はたくさんある。そもそも確実に知ることはできない。しかし、誰もいなかったし、何もしなかったかのように帳を下ろして 古代の、空白の年月について、「問」すら投げかけないことは 間違っている、と。

自分はこう考える。なぜなら~ 
「問」も自分の中から。
確実な「解」はないのだが、考えた筋道、根拠を語る。
それは、誰かさんの指示ではない、知りたい本人が作る

時間のかかる学び


*書物を読んで吸収し、自分の言葉でまとめる。
*先生や友人と「問」と「答」を交わし、自身でさらに「考え」の道を伸ばしていく。

時間の制約があって難しいと思われるが、
家庭学習あるいは学校における自学の時間と集団授業と 2wayでというのはどうだろう。自学の時間は、教育系大学院生などと共に学んでもらったらどうだろう。受益者が報酬を負担するのか、研修をどうするのかなど制度整備が必要だと思うが。

関係者の皆様、
そんなこと、既に考えてますよ!やってます!ということでしたら、どうか笑ってお許しください。

 

例えば、私、計算が苦手でした。悲しいことに 息子もそうでした。
当たり前ですが、計算は基本で 生活にも絶対必要で 
解はある→(A.解なし)という解もありますが、問いに対し、想像どおりの答えでなければならないですよね。
本来、論理的な道筋は 誰にでもわかる 分かり易さの塊なんだと思いますが、シンプルに論理的に、思考するのに 手間取る人もいて
それが、私であり 息子であります、はい。

難しそう、と思うとハナからやる気が失せて 自分に引き寄せて解ろうとしない。説明も、よく聞いていないから、段階的理解が進まず 最終的に
わけわからん状態。もう 考えることを辞退してるのに単元が進んでいく。
やりたくないんですね。わからないことを。

でも、やりたくないって、原因は、自分でしょ?
根気がないし、理解力もないからであって、できない、という事実が、評価されるんですよ。相対評価です、当然です。

そうですよね。わかります。
息子の場合、 同じ苦手意識を持つ私(母)が
ゆっくりでいいから 何度も 何度でも、間違えなくなるまで
同じ単元に取り組み続けるように、気長に付き合えばよかった。 
学校の授業は進むにせよ、成績はどうでもいいから 
解らない、間違いになるのはなぜ?を考え続ける。
解る実感を得られるまで ゆっくり見守ってあげればよかったと、

あのころを振り返っては、しみじみと ウジウジと思うのです。

わかってないし、解ろうともしないにもかかわらず、テストの点数や評価に打ちのめされた自分と息子のことを 悔やんでしまいます。

中学校以上では、3年ごとに受験があるので、どうしても、到達レベルを時間を切って管理することになり、先生の方も 押っつけ仕事になる。

部活動や生徒会活動もあって、時間に追われ、深く考えずにこなしていく、
アオハルですから、諸々考えることもあるし、付き合いなんかもある。
その中で
「学びを楽しむ」ことができる人は ほんとに能力の高い一部の人になってしまうだろう。
時間に、もう少し余裕があるだけでも 生徒も、先生も感じ方が違うと思います。

仕事においては、タスクのために、そして報酬を得るために
理解しなければならない、せねばならないという義務感が、苦手なことも クリアさせてくれる、ものですよね。
自分事に引き込むことで、周辺事情を呑み込んで 優先順位をつけて取り組める。具体的な目標、派生するご褒美につられる、という 俗にいう「報酬系」刺激も、利用価値大です。
ただ、これは、学ぶ楽しみがあった上で、の話だとは 思いますが。

教育改革 という言葉。よくお目にかかりますが
社会が激変の この時に 学校現場でも
重鎮は若い人の意見を 若い人は重鎮の助言を 聞いては問いかけ、果敢にトライして、 改革を形にしていっていただきたい。

できなかった、という記憶は非常に強固です。が、
苦手だった教科の参考書も
成長して大人になってから、ゆったりした気持ちで読んでみると、むしろ 楽しく理解できるものですよね。


ですから、これも、わざわざ言うことでもありませんが、
学校での評価は一時的な評価でしかない。そのころの得意不得意に、縛られることはない。

私おさんぽは、家庭科も苦手だったんですよ。ロックミシンで、パジャマを千々に切り裂いた辺りから、もう何をやってもダメでした。
しかし、なんか知らんけど 縫い目はひどいが、小物を作るのは好きなんです、今でも。縫い目がダメでも娘が喜んでくれたので。

相対評価は、その時の、その集合の中でのもの でしかない、ことは、渦中にいると忘れがちです。

不出来の烙印を押され、傷ついていた息子は、今 大学では 成績優秀で、コロナ後は、自炊にも目覚めて、一人暮らしを 色々と楽しんでいます。
自分の足で、自分の道を歩いて 時間はかかったけど 凸凹をならすことで 前を向けたのかもしれません。

先生たちは、本当に日々、様々なお仕事で、大変だと思います。
私が思うより、余裕がなくて 制約も多くて しんどいと思います。
しかし
生徒さんも、この状況で 我慢を強いられながら、よくやってます。

こんな時こそ
何か、不用品を整理できるかもしれないし、模様替えもできるかもしれないです、学校の中も、システムも。

婆さんが、わからないくせに発言して、無責任だと思われるでしょう。
申し訳ないです。ただのたわごとでございます。ご容赦を。

三月。もうすぐ 春です。巣立ちの時です、そして期末です。
学校現場で 
どうか、本当に必要な「変化」に近づけるように、下書きにはない、
正解のない問いかけの種を 先生と生徒で 探して 植えていただきたい。

花が咲くのは、まだ先でも 
いつかの春 を、楽しみにしたいと思います。

おさんぽでした。