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解らない、が解らないのかもしれない

なんか視界もぼやけて、頭もぼーっとする梅雨の朝です。
というか、常にぼーっとしている、
ぼーっとするのが得意な、おさんぽ婆です。

「こんなことも わからんか!」「これも、できないか・・」と
亡父に言われ続けてきた私、は
「解る」ってことは、一体なんなのか、どういう体の状態なのか、
について、ずっと興味がありました。

「解る」ことなく学校での「課題をこなす」のは、苦痛だし、
どう考えても時間の無駄、だろう、という話を書きました。
これは私の後悔であり、お詫びであり、自己満足?なぐさめ、であります。

限られた時間の中で「解る」ことができない分野があるのは
仕方ないことだし、個人差への対応にも限界がある。
「解る」ってことは、あくまで主観で、「解った!」っていう喜びは
自分が感じること。
先生や親が、与えることが可能なモノではない。

しかし、この喜びがあれば、自らに問いかけながら
ドンドン学びをすすめることができるよ、楽しむことが
自分のエンジンを動かしているのだから。

前にも、この記事を引用しました。
先生が、学校でのあらゆることを担う、というムリゲーがまかり通ってきたせいで、コロナ期間を経て、現状の学校は
先生方の、早朝から夜遅くまで 休憩なしの残業代なしの献身、で回っているという。
報酬も決して高くはない。ゆえに誰も、先生になりたくない、
だから、益々ブラック化する。

エライさん;「わかったわかった」そのことは、話し合ってるから、去年から。

はて、本当に「解っている」のだろうか?
「解る」ってことが、
「自ら学ぶ」ということが、
人が生きるエンジンそのものだ、ということを。

かく言う私も、自分の事でいっぱいいっぱいで、するべきことに追われて
知らされないことを、調べて解ろうとしてないよー、申し訳ないです。

私達が「理解」できることは、限られているでしょう。だが、
ソース、リソース含め学校がピンチなのだから、
「文句を言う」レベルではなく、早急にシステムを遡って、根本から改める
よう、国や自治体には、実行と継続を求め続けなければならない。

政治屋の「先生」さんよー、se-ジシキン?se-sakuカツドーhi?
「カニ」?なんじゃそりゃ?!
ナンボ説明されても、それがゼーキンで払われる必要性が
「理解」できんわ。
飲み食い費用は自分で払って、政党助成金を浮かせて、
学校の問題を解決するために
「実効性のある政策」立案、議会討論せんかい!

実際こんな風にやっている、こんな難しいねん、など、
現状や進捗状況を
地域の人が「理解」できて、もっと建設的な意見発出ができるように
AIを、もっと活用してみてはどうだろう。
北海道では、ブロックチェーンをコミュニティ自治に取り入れた試みが
行われていた、と聞く。とてもワクワクしますよねー。

新たなリーダーの下、首都東京で、
AIも含めた、真の改革が 多くの課題解決に繋がり
地方へ国政へと波及していくことを願ってやまない。


*母を見ていて、「理解」について思うこと。

元来の性格とか、ものの考え方、も影響すると思いますが、
ちょっとボケちゃったなーというレベルから、
認知症だなーという段階に移行した時は、
コロナ期間中ということもありましたが、
経過がステルスで分かりにくかったです。
母の場合は、以前から
何であれ「どうせわからんだろう」と父に決めつけられ、
自分で考えて、何かを決めるということを殆どしてこなかった。

父が決めたことに反対です、と異を唱えることは、
もう「面倒だから」しない、したくない。
もともと、めんどくさがり屋で、深く考えるタチではなかったが
自分の気持ちとか、何がやりたい、とか
そういう「自分自身」なるものは、そのうちに、
探しても見つからなくなってしまった。

もともと、マメではなく、社交的と言うと聞こえはいいのですが、
家事もいい加減で、掃除も嫌いでしたから、
認知症になって急に家の中が荒れた、わけではなかったのです。
ただ、欲もなくて、●してくれ、という要求は全て父からでした。
母は、「ダイジョブよ、なんとかやってる」と言うだけでした。

自分の変化についても、何の関心も持てない状況で、全て亡夫の言いなり。
いいも悪いも、それを受け容れてしまっていて、
正直、何のために生きているのかわからない、しかしそのことで憂鬱になっているわけでもない、
「解らなくてもいい」
ごく自然に受け入れている、私にはそんな風に見えました。

ただこれは、父に頼って、任せていれば安心ということで保たれていただけ、と言えますから、父がいなくなったら大丈夫だろうか?
施設入居に際して、私も弟も大変心配しましたが、
当初は、
環境変化に混乱もしていました。しかし、
父が倒れた時は、何も考えず職員に頼ることができたし、
一人の部屋で、
日々、介助をいただきながら淡々と暮らして、
父の退院と共に施設の引っ越しもスムーズにできました。

「何が起こっているのか」
母は、今の一瞬一瞬にしか対応できない、しかも、
こうする理由、とか予定などは、「記憶にございません」
なので、何も「解らない」まま生きている、状況だと思います。

でも、すごく真剣に、一生懸命に生きている
そう、私には感じられます。
「解らない」けれど
解ってもらえない、のだけど
母の今一瞬を思いながら、無事を願いながら、私も生きている。

薬局の患者さんの中にも、同じような方、たくさんいます。
認知症高齢者は、
「解らない」ことだらけになってしまって、
「自分で自分の管理ができない」という点で、
日本社会にとって、お荷物でありカモである。それは事実だと思いますが、
最後の一瞬まで、
人を頼りつつ、人を信じて 生きてほしい、と思う。
真剣に、真摯に生きている姿を、後輩たちに 見せてください、と願う。

個々の介護、における人材や経済の問題だけでなく
これは、何も高齢者に限ったことではないのだけれど、

「解らない」から、人は困っているんだということが、
共通「理解」となって
助けを求める求めない、に関わらず自然に、スムーズに
誰かに、何かに頼ることができるように
社会全体で、更に現状に即した、安全な制度設計がなされ、
加速のついた少子高齢化に備えられたら、
有難いなと、婆は思っています。

おさんぽでした。お読みいただきありがとうございました。