夏目漱石「こころ」下・先生と遺書四十二「狼のごとき心と罪のない羊」
先生は、「Kと並んで足を運ばせながら、彼の口を出る次の言葉を腹の中で暗に」「待ち伏せ」る。「その時の私はたといKを騙し打ちにしても構わないくらいに思っていたのです。」
恋の戦争の継続。
「彼の口を出る次の言葉」とは、前話でKが「俺は馬鹿だ」と自己否定したので、これに続く言葉という意味。
先生は、Kの言葉を待ち、その上げ足を取るような話し方をする。相変わらず自分の考えを言わずに、相手を批判する。
「騙し討ち」…油断させておいて、不意に殺すこと。相手を偽って、ひどい目にあわせる意にも用いられる。(三省堂「新明解国語辞典」第6版)
自分のエゴの完遂のためなら、長年の友人をだましてひどい目にあわせてもいいと考える先生。友情や倫理の破綻。叔父に裏切られた時の誓いは、どこに消えたのだろう。あれほど悩み苦しみ、両親の眠る墓がある故郷と決別までしたのに、それをすっかり忘れ、大事な友達を裏切っても構わないと考える先生。過去に学ばない姿。
「しかし私にも教育相当の良心はありますから」以降の部分について。
ここで先生は、一見自分の罪を懺悔しているようだが、よく読んでみると、印象が違ってくる。
東京大学の学生が持つ「教育相当の良心」は、「誰か私の傍へ来て、お前は卑怯だと一言私語いてくれ」ないと、「はっと我に立ち帰」ることができない程度のものなのか。またしても他者依存・他力本願の態度。他者からの働きかけがないと、先生は、「はっと我に立ち帰」ることができない人なのだ。先生の後悔はうかがえる。しかし、この言い方は、その犯した罪を真に自覚しているといえるだろうか。自分の裏切りを、誰もそれに気づかせてくれなかったからだよーと言うのは、罪を他人(ひと)に擦(なす)り付けた態度だ。
さらに、「余りに正直で」「余りに単純で」「余りに人格が善良だった」Kは、先生を心から信頼している。そのKが、「お前は卑怯だと」言うはずがない。そもそも先生の「卑怯」に気づいていないのだから。可能性ゼロのケースを想定し、「もしKがその人(「今、お前は、卑怯だぞ」と言う人)であったなら」と言われても、先生の手記を読んでいる青年も読者も、「この人、何言ってんの?」としか反応できない。恥ずかしさに「赤面」するのは、青年と読者だ。
「余りに正直で」「余りに単純で」「余りに人格が善良だった」K。お嬢さんへの恋に「目のくらんだ」先生は、「正直、単純、善良」という「敬意を払う」べきKの性質に「付け込」み、「そこを利用して彼を打ち倒そうと」する。自分の犯した罪・悪の告白の場面。
「Kはしばらくして、私の名を呼んで私の方を見ました。今度は私の方で自然と足を留めました。するとKも留まりました。私はその時やっとKの眼を真向(まむき)に見る事ができたのです。」
先の場面で先生は、自分の罪を告白した。この当時も、罪の意識は多少なりともあったかもしれない。「やっとKの眼を真向(まむき)に見る事ができた」のは、自分の罪を自覚したことと、さらにはそれを告白したこととがリンクしているかもしれない。過去とそれを語る現在との相互作用と見ることもできるだろう。ただしこれは、その可能性もあったということだ。
「Kはしばらくして、私の名を呼んで私の方を見ました。」
Kが先生の名を呼ぶ、非常に珍しい場面。前に下宿の布団の中で、「おい」の応酬があったが、ここで相手の名を呼ぶのは、これから大切なことを相手に伝えたいという気持ちの表れだ。具体的には、苦しいので、これ以上恋愛の話はやめようという提案がこれに続く。
「Kは私より背(せい)の高い男でしたから、私は勢い彼の顔を見上げるようにしなければなりません。」
Kは先生よりも背が高く、男の先生の目から見てもイケメンで、成績優秀。先生は、すべてにおいてKにはかなわないと思っていることが、他の場面にも出てくる。
恋敵のKを「打ち倒そうと」たくらむ先生は、「Kの眼を真向(まむき)に見」、自分より「背(せい)の高い」「彼の顔を見上げるようにし」、「狼(おおかみ)のごとき心を罪のない羊に向けた」。獲物を狙うオオカミが、地面に低く構え、すきあらば羊に襲い掛かろうとしている様子がイメージされる。弱肉強食のエゴの世界。獣には、倫理も冷静さもない。あるのは欲と衝動だけ。たとえ人間であっても、「恋」というエゴにおいては、獣になることのたとえだ。今、Kと先生は、自分で自分が抑えられなくなっている。自制心のたがが外れた状態。そして現在の戦いを支配しているのは、先生だ。主導権を握るのは、「平生」であればKなのだが、今はそれが逆転している。今Kは、弱々しく罪のない「羊」であり、先生はKの心の地図までも握る、絶対的な支配者・狼になろうとしている。その「咽喉笛(のどぶえ)へ食らい付」けば、Kは死ぬしかない。それが、今は簡単にできる状況になっている。生殺与奪の権は、先生にある。それを先生は、実行する。
先生は「彼に向って残酷な答を与え」る。
「止(や)めてくれって(君はもうこの恋愛話はやめようというが、それはおかしい)、僕がいい出した事じゃない、もともと君の方から持ち出した話じゃないか。しかし君が止めたければ、止めてもいいが、ただ口の先で止めたって仕方があるまい。君の心でそれを止めるだけの覚悟がなければ。一体君は君の平生の主張をどうするつもりなのか」
この先生の言葉には、たくさんの意味・内容が含まれている。以下、先生の論理を整理する。
1、「止(や)めてくれって、僕がいい出した事じゃない、もともと君の方から持ち出した話じゃないか。」
恋愛相談をし始めたのは、Kの方であり、自分はあくまでも受け手・聞き役だ。聞く側の人に話をやめてくれというのは、筋が通らない。Kの方が話をすることをやめればいいだけなのに、図書館で勉強していた自分を連れ出してまで、話を聞くことを強いているのは矛盾だ。君は話をしたいのか、したくないのか、俺に話を聞いてもらいたいのか、もらいたくないのか、君の考え・気持ちがまるで分らない・理解不能だ。
2、「しかし君が止めたければ、止めてもいいが、ただ口の先で止めたって仕方があるまい。君の心でそれを止めるだけの覚悟がなければ。」
どうやら君は、恋愛相談をやめたいらしいし、俺もやめてもいいが、ただ口先だけで「止める」と言われても、信用できない。またいつ相談したいと俺を連れ出すかもしれぬ。もう俺に恋愛相談をしないという覚悟はあるのか。
3、「君が止めたければ、止めてもいいが、ただ口の先で止めたって仕方があるまい。君の心でそれを止めるだけの覚悟がなければ。一体君は君の平生の主張をどうするつもりなのか」
2と3の「それ」には、二つの意味が掛けられている。二つともKを強く圧迫する内容だ。
その一つは2で述べた、恋愛相談をやめること。
もう一つは、お嬢さんへの恋をやめる・諦めることだ。
つまりここで先生は、恋愛相談をやめるという話題を上手にずらし、Kのお嬢さんへの恋をやめるという方向に話をうまく持って行っている。そのずらし方がとても上手なので、いつの間にかKも先生の追及を真正面から受け止めざるを得ない状況になっている。Kの反論ができない構造。
3は、お嬢さんへの恋をやめる・諦める覚悟が、君にはできているのか、という意味。君は「平生」、恋愛を愚だと否定していたが、あの「主張」はどうなったのだ、という意味。だからこの言葉も、「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」と同義になる。Kにとっては、まことに痛い・辛い言葉だ。これまでの自分の主張・人生が、丸ごと問われる言葉だからだ。Kの存在意義が問われる重い問いかけ。
「自分の矛盾などをひどく非難される場合には、決して平気でいられない質(たち)だった」ことを十分に知った上での矛盾の指摘。しかもそのKの「質」は、「人一倍の正直者」という性格から来ている。敬うべき性質を逆手に取り、相手を倒そうとする先生は、獲物の息の根を止めようとする狼のごとき存在となった。Kは、狼に睨(にら)まれ、身が竦(すく)んでしまう。ふだんは威張って偉そうなKが、高い「背」を「自然と私の前に萎縮(いしゅく)して小さく」させている。その憐れな姿に、先生は、(妙な)優越感・達成感を感じ、「ようやく安心」する。(ここは、『羅生門』における、老婆を制圧した下人を想起させる)
「すると彼は卒然「覚悟?」と聞きました。そうして私がまだ何とも答えない先に「覚悟、――覚悟ならない事もない」と付け加えました。彼の調子は独言(ひとりごと)のようでした。また夢の中の言葉のようでした。」
矛盾を鋭く指摘され意気消沈の状態にあるKには、すでに、冷静な判断能力はない。だから先生の言葉に促されるままに、思考を進める。先生から「それを止めるだけの覚悟」はあるのかと問われれば、「覚悟はある」としか答えようがない。そう答えてしまう。そうして、そう答えた後に、「覚悟」の意味を探す。その答えは、死だ。でもそれは、現実とはとても思えない。これまで思ってもみなかった道。自分には、死という選択肢しか残っていないのか? これらが、Kの「調子は独言(ひとりごと)のよう」であり、「また夢の中の言葉のよう」だった理由だ。自分の存在意義の否定・喪失=死。ここでKは、そこまで思い至っただろう。
ところで、「覚悟ならない事もない」の部分だが、一般的には、「なら」の後に読点を入れた、「覚悟なら、無い事もない」と解釈されているようだ。しかし本文では、ここに読点は付されていない。であるならば、「覚悟・ならない・こともない」と読むべきではないか。つまり、先の解釈だと、「自分に覚悟がないわけではない」の意味になり、後の解釈だと、「自分は覚悟しないこともない(いよいよとならば覚悟するぞ)」の意味になる。前者は後者と比べるとやや弱い。後者は、これから強い意志をもって覚悟するぞという、強い意味と気持ちが感じられる表現だ。そうしてその「覚悟」とは、先ほど述べたように、「死」を意味する。私は後者を取る。
「小石川の宿の方に足を向け」たふたりは、「冬の」「淋しい」「公園」を後にする。「霜に打たれて蒼味を失った杉の木立の茶褐色が、薄黒い空の中に、梢を並べて聳えている」という部分は、冷たい世の中を孤立して淋しく生きる人々を表している。Kと先生も、それぞれのエゴを生きる過程においては、そうするしかない。明治という時代において、世の「寒さ」は、人の「背中へ噛り付」く。その苦しみをこらえて、人は自分の道を歩くことを求められる。先生とKは二人連れ立っているようだが、ここでは相手とは無干渉だ。「ほとんど口を聞」かず、まるで相手を無視しているかのようにただ下宿に向かう。それは、近代社会における人々の孤独・孤立の姿そのままだ。少年時代からの友人であっても、エゴがぶつかり合うと、こういうことになる。日本の近代を生きる人は誰でも孤立が必然だと、漱石は見ている。
この部分も非常に暗示的だ。また、演劇的効果を十分に発揮している。
客席に座るわれわれ読者は、すべての事情を知っている。それに対して、ステージ上の登場人物は、それぞれが得ている情報の質と量に差がある。だから読者は、ステージ上の人物を、ある時にはハラハラ見つめ、ある時には愚かだと思い、ある時には共感して涙を流す。それをとても効果的に作者は活用し、この場面の人間関係を表現している。
ここはとても面白い場面なので、詳しく見ていきたい。
「宅へ帰って食卓に向った時、奥さんはどうして遅くなったのかと尋ねました。」
その詳細な理由を、われわれ読者は既に知っている。この直前に、先生とKのエゴはぶつかりあった。(ただし先生を信頼するKはそれに気づかず、先生は先生で、今自分はエゴを発揮しているということに気づいていない。両者ともに意識しないエゴのぶつかり合いという場面だった) だから、事情を知らない奥さんの質問に、どう先生は答えるのだろうということ・成り行きに、読者の興味はそそられる。(これが、物語を読む面白さだ)
「私はKに誘われて上野へ行ったと答えました。」
それはそのとおりであり、決して嘘ではないのだが、先生はわざと省略して答えている。しかもかなりの略し具合だ。Kと先生の緊迫したやり取りが隠されている。もちろんここは、奥さんにすべてを伝えることはできない状況だが。また、先生のこの返事に対して、Kはどう思って聞いているのかが、読者はとても気になる場面だ。
「奥さんはこの寒いのにといって驚いた様子を見せました。」
漱石は奥さんに、わざとこのように発言させ、驚かせている。何も知らない奥さんが、一見愚かに見えるのだが、奥さんのこの反応が、つい先ほどまであったKと先生の深刻なやり取りを際立たせる効果を持っている。またここは、何も知らない奥さんの当然の反応だ。
「お嬢さんは上野に何があったのかと聞きたがります。」
いたずら好きなお嬢さんは、いつものようにこのような好奇心を示す。お嬢さんの無邪気さと、先生とKの深刻さとの対比。しかも、のんきな反応を示しているお嬢さん自身が、先生とKの諍(いさか)いの張本人という皮肉。これらを読者が読み取ることが、物語を読む醍醐味だ。つまりここでも漱石は、わざとお嬢さんにこのような役回りを与えているのだ。
「私は何もないが、ただ散歩したのだという返事だけしておきました。」
先生はこう答えるしかないだろう。この返事は嘘ではない。嘘ではないが、本当でもない。そこがおもしろい。先ほど奥さんにしたのと同じような反応を示すしかない先生。しかしその内心は、いま目の前にいるあなたが原因で、我々は苦悩しているのだという思いがわだかまっている。でも、それをそのまま伝えるわけにもいかない。
「平生から無口なKは、いつもよりなお黙っていました。奥さんが話しかけても、お嬢さんが笑っても、碌な挨拶はしませんでした。」
いつにも増して寡黙なK。しかしそれに反して、Kの心の中にはさまざまな思いが渦巻いている。すぐそばにいる愛しい人。その笑顔の輝き・無邪気さ。その人が原因で苦悩する自分。お嬢さんの明るさと自分の重さがどうしてもつりあわない。長年の友人からは責められる。何も知らない奥さんにも、自分の苦悩は理解されない。
以上のように、この場面は、綿密な計算のもと、構成された場面だ。漱石の本領発揮。
我々読者は、これらの人物や場面を俯瞰することができる、神の視点を持っている。
「それから飯を呑み込むように掻き込んで、私がまだ席を立たないうちに、自分の室へ引き取りました。」
とても分かりやすい表現であり、イメージが容易だ。また、この表現は、Kの置かれた厳しい状況を表す一方で、人間という動物は、たとえどのような状況であっても、食べなければ生きてはいけないということも感じさせる。Kは今、先生の経済的援助によって、ものを食べることができ、学校に通うことができているという厳然たる事実。それを改めて感じさせる部分だ。だからKは先生にはむかうことができない。どんなにつらく責められても、それに対抗・反抗することができない。しかも相手の論理は一応筋が通っている。どうすることもできない、八方ふさがりの状態。
またKは、自分でも自分がわからなくなっている。今の自分やこれからの自分はいったいどうすればいいのか。これまでの自分を否定すると、他にどのような道が残されているのか。どんなに考えても答えが見つからない。そうして、唯一黒い口を開けて待っているのは、あの世だけに思われてくる。
Kが逃げ帰った部屋は、Kのこころが唯一休まる場だ。しかしそこにいられるのは先生のおかげ。愛の対象であり、自分を混乱させる対象であるお嬢さんの部屋は、すぐそばにある。
ここまで考えてくると、先生の追及は、Kにとってとても厳しいものだったことがわかる。先生はKに逃げ道を残してあげなかった。激しい口調ではなかったが、徹底的にやり込めてしまった。他者への批判は、やりすぎてはいけない。徹底批判は、精神的・肉体的に、相手を追い詰めてしまう。先生は、まず言葉で、Kを確実に追い込んだ。そうしてこの後、Kには知らせずにお嬢さんとの結婚を申し込むという行動で、Kの背中を死へと押す。
蛇足だが、「私がまだ席を立たないうちに、自分の室へ引き取りました。」から、平生は、ふたりで一緒に食事をし、食事を済ませ、一緒に席を立っていたことが分かる。食事には、奥さん、お嬢さん、先生、Kの四人が同席することが多かったようだ。
大学生である先生とKの下宿生活。無邪気な女の子が同居しているという設定。そこに事件・問題が起らないはずがない。「下宿のお嬢さん」は、決して齧(かじ)ってはいけない禁断の果実だ。
補足
「Kは」「余りに正直」「余りに単純」「余りに人格が善良だった」。
先生は自身を、「目のくらんだ私は、そこに敬意を払う事を忘れて、かえってそこに付け込んだのです。そこを利用して彼を打ち倒そうとしたのです」と告白する。そうして自分を「狼」にたとえ、「狼のごとき心を罪のない羊に向けた」と懺悔する。しかしKは、本当に「罪のない羊」と呼んでよいものだろうかという疑念も残る。正直すぎる人、単純すぎる人、人格が善良すぎる人。こういう人は、ともすれば扱いにくい相手だ。そのような人は、こちらにも正直や善良を求めてくる。相手にその意図がなくても、こちら側にそう思わせるような無言の圧を与える、厄介な相手なのだ。先生も、時にそのような感情を抱いただろう。
精進や精神的向上心による「道」の達成を常に追い求めるK。しかもKのその要求は、他者へも向かう。Kはさらにそこが難点だ。自分に厳しいのは構わない。その上Kは他者にも厳しい。これは、先生だけでなく、女性に対しても同じだ。だから、Kの相手をするものは、やりきれなくなる。これは、「水清ければ魚棲まず」に近い。このKの態度に先生は、常に緊張状態にあっただろう。油断すると、すぐに批判の対象になってしまうからだ。
(それにしても、こんな堅物のKをフニャフニャにしてしまったお嬢さん、やっぱりタダモノではない)
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