夏目漱石「こころ」~奥さんへのお嬢さんとの結婚の申し込みについて

次は、「私」が下宿の奥さんに、お嬢さんとの結婚を申し込む場面です。

 私は突然「奥さん、お嬢さんを私に下さい」といいました。③【奥さんは私の予期してかかったほど驚いた様子も見せませんでした】が、それでも少時返事ができなかったものと見えて、黙って私の顔を眺めていました。一度いい出した私は、いくら顔を見られても、それに頓着などはしていられません。「下さい、ぜひ下さい」といいました。「私の妻としてぜひ下さい」といいました。④【奥さんは年を取っているだけに、私よりもずっと落ち付いていました。「上げてもいいが、あんまり急じゃありませんか」と聞くのです。】私が「急に貰いたいのだ」とすぐ答えたら⑤【笑い出しました】。そうして「よく考えたのですか」と⑥【念を押すのです】。私はいい出したのは突然でも、考えたのは突然でないという訳を強い言葉で説明しました。
⑦【それからまだ二つ三つの問答がありましたが】、私はそれを忘れてしまいました。男のように判然したところのある奥さんは、普通の女と違ってこんな場合には大変心持よく話のできる人でした。⑧【「宜ござんす、差し上げましょう」といいました】。「差し上げるなんて威張った口の利ける境遇ではありません。どうぞ貰って下さい。ご存じの通り父親のない憐れな子です」と後では向うから頼みました。
⑨【話は簡単でかつ明瞭に片付いてしまいました。最初からしまいまでにおそらく十五分とは掛らなかったでしょう】。奥さんは何の条件も持ち出さなかったのです。親類に相談する必要もない、後から断ればそれで沢山だといいました。➉【本人の意嚮さえたしかめるに及ばないと明言しました。】そんな点になると、学問をした私の方が、かえって形式に拘泥するくらいに思われたのです。親類はとにかく、当人にはあらかじめ話して承諾を得るのが順序らしいと私が注意した時、奥さんは⑪【「大丈夫です。本人が不承知の所へ、私があの子をやるはずがありませんから」といいました。】
自分の室へ帰った私は、事のあまりに訳もなく進行したのを考えて、かえって変な気持になりました。はたして大丈夫なのだろうかという疑念さえ、どこからか頭の底に這い込んで来たくらいです。けれども大体の上において、私の未来の運命は、これで定められたのだという観念が私のすべてを新たにしました。

青空文庫より

③~⑥あたりの、下宿の奥さんの落ち着きや余裕を、皆さんはどう思いますか?

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