美しいもの(ダスト・エッセイ)

哲学者の鈴木泉が、「きれいなものはどうしてきれいなの?」という子供からの問いに答える文章がある。鈴木は、華やかで整った小さいものを人はきれいだと思うと答える。

でも、きれいなものを愛でるよりも大事なものがあるんだよ、と語る。あるものに触れて、それが「織り成す空間に連れて行かれる経験」、つまり美しいものと出会うことが、それだと言う。前者も素敵だが、後者には、生き方を変えてしまう力があると、鈴木は考えている。
(「飾りとしてのきれいなものから美しいものへ」、野矢茂樹編『子どもの難問』中央公論新社、2013年、p.124-126)

好きなバンドのサンボマスターは、やたらと歌詞に「美しい」といれている。よく知っているようで意外と日常ではあまり使わない「美しい」という単語が多用され、正直胡散臭いなあとずっと思ってきた。


さよならとても美しい救いだったんだ
何気ないしぐさも僕を強くしたんだ
(「フリーダム ライダーズ」)

大切な人を守れなかったこと、その片づけようのない内側のたたかいを歌にしていた。とても美しいそんな人の存在に、どうしようもなくつき動かされていた様子が想い浮かぶ。

鈴木の考えを読んだ後なら、「美しい」という言葉を求めることに納得できる。

僕はこれまで、何を美しいと思っただろうか。

1年大学を休学して、辺野古で基地建設反対運動に参加している友人がいる。彼はいつも、地元出身ではない、基地関係で身内を亡くしたわけでもない、本土から参加している、その拭えない非当事者感を抱いている。

僕はその悩みを前にして、いつも無力感を覚える。

彼は、挑戦的な時間を過ごしている。せっかくなら、鈴木の言う美しいの典型例の一つ、「まっすぐな生き方を体現するような人のすっとした立ち姿」を、見つけて、彼なりの答えを見つけてほしい。

そして、その立ち姿と、彼の心変わりの様を、無力感に浸る僕にも、教えてほしい。

(2023年10月19日投稿)

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