溺れる若者たちの未来は|映画『チワワちゃん』を考察する
「自己責任」
誰かの行為が、その一言で片づけられることがある。あなたがやっていることは、あなたが自分で決めてやったんでしょう? と。
良いも悪いも、すべてが「自己責任」。世界に墜ち、金と欲望と愛に溺れ、どんどんと堕ちていく「チワワ」の行動は正に「自己責任」のそれだ。
しかし本当に自己責任で片付けて良いのだろうか? この裏には自己責任では片付けられない、大きな流れがないだろうか?
だからこそ、映画『チワワちゃん』はパリピだけでなく、マジメな人たちも含めた、今を生きる若者たちに響くものがある。
軽快なEDMに、派手な演出、過激な行動。見えるもの、聴こえるものだけを捉えると”ただエモい映画”かもしれない。
しかしその奥には現代の若者に向けたメッセージが込められているように思う。
(以降ネタバレあります)
***
「変わらぬ日常」という悩み
「バラバラ殺人事件の被害者の身元が判明した。」
「それが、私の知っている“チワワちゃん”のことだとは最初思わなかった。」
衝撃的な冒頭から、チワワとの思い出を振り返ったり、仲間たちの話をミキ(門脇麦)が聞いて回ることで、徐々に明らかになっていく「チワワ」というキャラクター。
派手なファッションに身を包み、爆音の中で時間を忘れてクラブに没頭するミキたちは、いわゆる「パリピ」な存在だ。
ミキたちのグループとチワワが最初に会った時の会話は「今年の夏休み何する?」だ。行きたいところ、やりたいことは色々と出てくる。しかし、言うだけで現実はお金もないし、時間もない。
結果的にいつもと変わらない日々を過ごす。
変わらない日常。それはパリピではない若者たち(マジメ)にも当てはまる、「共通の悩み」ではないだろうか。
将来起業したい、もっと人脈をつくりたい、地域に貢献したい…etc。目標も夢も志も、沢山ある。だけど、お金や時間、経験がない。結果的にいつもと変わらない今を生きる。
パリピもマジメも、抱える悩みの根っこは同じではないだろうか。
そして、悩みをため込んだ先に待ち受けるものは?
「自爆テロ」だ。
ミキたちはその後、とある事件から600万円を手にして、たった3日間で全額使い切るほどにやりたい放題に遊ぶ。その時の様子を後にミキは「青春の自爆テロだった」と語っていた。それまでの平行線だった日常を、お金の力で飛び出し、一時的であっても非日常を作り出した行為は、彼女らにとっての「自爆テロ」的だったのだ。
そして映画の後半、クラブのテレビで「シンガポールでの同時爆破テロ」の緊急ニュース速報が流れてくる。劇中に繰り返される「テロ」というパワーワードが「変わらぬ日常」の終着点だとしたら・・・?
チワワというアイコン
彼らはなぜ、「テロ」行為に走ってしまったのか?
その謎はチワワという人物を知ることで明らかになる。
・素直で、まっすぐで、行動力がある
600万円を手にするために、真っ先に行動をするチワワ。モデルの仕事も、Instagramも、ミキをきっかけにのめり込む。
映画の最後、ミキが見たチワワの幻影は、積まれたゴミ山の横を全力疾走している。汚れた世界の中で走るチワワはずっと笑顔だった。
・今、誰かに必要とされてる=幸せ という価値観
チワワは初対面でも明るい愛くるしい笑顔を振りまく。まるで小犬のチワワのように。
自分を愛してくれる人を確認するかのように、仲間の家を転々とする。その度に仲間がしてほしいことを、自分の持てる全てを使って捧げる。
「10年後、20年後、君は何しているかな?」そんなことはわからない。今、目の前の誰かに必要とされていることが全てだから。
・泳ぎ方は知らない
特に印象的なのは、ナイトプールでの出来事。プールに飛び込んだチワワは、ユミ(玉城ティナ)にしがみつく。
「私、泳げないから。絶対に離さないでね。」
素直で、明るくて、行動力もあるチワワ。しかし泳げないのだ。
これが「現代の若者に向けたメタメッセージ」ではないかと思う。
溺れる若者たち
そもそも、変わらぬ日常に悩むのはなぜか。
それは「変わらぬ日常を、変えたい時に変えられないから」じゃないか。思った通りにいかない、できない、その辛さに悩む。
そして日常を変えられない理由は、溺れているから。一見すると時代の波に乗って泳いでいるように見えるかもしれない。しかし、それは泳いでいるのではなく、流されているだけ、溺れているだけ。金に、酒に、欲望に、快楽に、速すぎる時代の流れに。
溺れているから、彼らの行動すべてが、まるで自爆テロのようにしか見えないのだ。
僕らの時代は、
映画を見終わって、考えれば考えるほど、チワワの魅力に気が付く。
愛嬌があって、人当たりもよく、誰とでも打ち解けて、素直で行動力もある。(おまけに可愛い)
そんな類まれなる才能を持っていたにもかかわらず、最期には仲間との繋がりも、自身の身体さえも「バラバラ」になって死ぬ。
泳ぐ力もなく、溺れている人に対して「自己責任」を成り立たせようとする現代。死なない為には、泳ぐ力を身につけるしかない。
息もできないほど ほど
見つめあってる 波の上で
波の上で、見つめ合うだけでは溺れ死ぬ。それが僕らの時代かもしれない。
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