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私の代わりに細く長く愛されて

母は動物が嫌いだった。

母と動物園に行った記憶はほとんどないし、お祭りで金魚をすくって帰ってくることも怒られた。

だから、ある日仕事から帰ったときに突然冷蔵庫横に現れた大きな水槽を見たとき、最初は兄弟の誰かが勝手に置いたのだろうと思った。
ちなみに私の兄弟はみんな高校生以上で、金魚を勝手に持って帰ってきても、一切を自分でどうにかするのであればある程度自由にできる歳にはなった。

水槽に泳ぐごまみたいな魚たちを眺めていると、母が洋服をセールで買ったときと同じテンションで「それなぁ、安かったから近くのペットショップで買うてきてん」と声をかけてきた。
魚を家に持ち込んだのはまさかの母であった。

子どもがみんな大きくなって、ただただかわいがるという存在が別に欲しくなったのかもしれない。
子ども一辺倒だった母が、家庭以外のことを楽しみ大切にでき、愛情を偏らせなくなった。それは健康的で家族にとって嬉しいことだ。
ただ、「安いから」という理由でグッピーに手を出したところは母らしいと思って愛しくなった。
グッピー、安くてありがとう。そして母に飼われてくれてありがとう。

仕事から帰り、家事を一通り終えると、悠々と泳ぐ魚たちを見ながら友達に電話をすることが母の日課になった。私はそれを嬉しいなと思いながら眺める。
子ども4人をまともに育てるということは、非常に大きく良質な愛と覚悟がなければできないことだと思う。
そんな母の残りの愛情を1mmずつでも受けられるこのグッピーの群れは、名誉ある魚たちだなと思う。


会社の先輩と道を歩いているときに、私に「動物飼ったりしないの?」と聞いてきた。
目の前ではダックスフンドとそれを散歩する夫婦が横断歩道を渡っていた。
「飼いたいと思ったことはあるけれど、強く思ったことはないです」そう答えた。

私は孤独であることを知っている。
その孤独は何にも誰にもある程度までは埋めることが出来るし、一方で最後のピースだけは、この世界にあるもので埋めることなどできないことを知っている。
だから、大切すぎるものがあまりにも増えることが怖い。
そんな小心者が動物は飼えないなあ…と考えている。(命をともにすることはそれほどに重い)

動物もいいけど、今、私には愛を分け与えたいという人がいくつかいて、その人をないがしろにしないように、もっと器用に生きるよう鍛錬に励む。


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