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正しい道を歩けるように

大阪の大都会梅田とはいえ、その端も端っこにオフィスを構える仕事場へは、いつも使う駅からだいたい歩いて片道30分弱。
歩くのが遅いのもあるけど、とにかく通勤で歩く時間が長い。
ちなみに、安さと広さと陽当たりを引き換えに駅から14分ほど歩く場所に住んでいるので、やっぱりたくさん歩いている。
そうなると1日トータルで1時間半くらいは歩いていることになる。
そんな今の職場になってからか、いつの間にかラジオやポッドキャストを聴く習慣がついた。
勉強になるものから雑談まで、いろんな人の声と思想を聞き齧っている。

私は自分の思想に信頼がないし、整理も言語化もうまくできていない。
だからいろんな人の話をコラージュしている。
色んな言葉を見て聞ける今世で、聞き分ける力がかなり必要だなとあらゆる場面で感じる。
どれが妥当か、事実か。どれが自分に必要で、かつフィットするか。そして何が正しさなのか。

自分のリテラシーを問うのは己の問題として、人に対してどこまで指摘していいのか、ということをいつも迷ってしまう。
少し偏っているなとか、他人に危害を加えそうだな、とか。私はそのへん、人それぞれだしなとか、私が正しいかどうかもわからないしな、とか思って咎められないでいる。
何なら私は受け入れられる広さがあるのだと悦に入ることすらある。
でも、私によくしてくれた人の顔を思い浮かぶと、多くは私に叱ってくれたことがあって、そのおかげで成長できたという感謝が込み上がってくる。
他人に注意なんてほとんどしたことのない私は誰かにとってそんなふうに思われたことないだろうな、と考えるとすこしさみしくなった。

あるがままを受容することも必要なことかもしれない。
でもその考えを突き詰めると、関わり合いを避けていって逆に相互理解につながらないこともあるなと感じてきた。

自分は正しくありたいし、可能な限り世界のあらゆるものを正したい。
正す勇気をもう少しだけ蓄えたいなと思う。
でも、それは本人が変わるかどうかが結局は大事で、心を動かされるかどうか。
だから、どうか良い方角に向けますようにと願ってみる。

あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。

ヤコブの手紙‬ ‭1‬‬:‭5‬ (聖書 新共同訳‬)

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