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女でありつつ女にとどまらない

女であるだけで、透明な網にかかっていると思う時がある。

例えば、女だから賢すぎるとモテないとか、料理ができないとダメだよねとか、結婚がいちばんの幸せだよねとか、女を捨てる捨てないとか、おしとやかとか華とか母性とか色気とかメスの本能だとか。
それらが共通言語になっていて正直その文脈にのっとるのが楽で、私もよく意識的に流されてしまう。知らぬ間に自分も染まっていて巻き込まれている時もある。

女であることで優遇パスポートを持っていることがある。
いろんな可愛いオシャレができる。
ちゃんと髪を巻いて座って微笑めばご飯が降ってくることもある。
女に弱い上司が多い職場にいたときは怒られることも少なかったし、
おどけたレディファーストでラッキーのおこぼれをもらうことも多々ある。

反対に、女であることが憎く思うこともある。
私は女の子であると言う理由で、今でも一応門限はあるし、
進学の時に、女が旧帝大の学歴持ってどうすんねんとも言われた。
社会人になってから、様々な場面で直接的にも間接的にも女性というだけで過剰に制限がかかることを多く目にした。細かくってここには書ききれないけれど。

人間である、女である、家族に属している、日本人である、社会人である、平成生まれである、そんなナチュラルなカテゴリーに振り分けられて、その網で身動きが取りにくくなっている。
みんな当たり前のように呪いをかけ合っていて、知らぬ間に窮屈になっている。

私は、ことごとく装いも思考も「女らしい」。
「女らしくとか言うな!」と言いながら、花柄もピンクもワンピースも恋バナも大好きだ。「女の幸せ」といわれる恋愛や結婚もしたいとも守られたいとも思う。

けれど、私はできる限り頭を使って、女由来のものごととそうでないものの棲み分けを行う努力をしている。
頭でっかちに考えすぎちゃう? 何が違うの? と問われた時点で私は勝っていると思っている。
私は、少なくともその問いを立てる人より、自分の欲望や思考を客観視しようと努力し、自分に張り付いている偏見を今剥がせる分剥がすことができているからだ。
その偏見によって見知らぬうちに人の首を絞めているかもしれないことも自覚しているし、そうしないようにアンテナを張れている。

私の、可愛くなりたいとか愛されたいとかの「女の」願望は、私が女だから思っているのではない。
私という主体がそう思うからそう思っている。
私が男であっても、その時の私のありのままに従って生きていると思う。

とはいえ、そのバランスを取るように、たまに勝気でいるようにしている。権威を振るう人間相手に言える時には言うようにしたり、こうやって文字にするようにしている。

レディファーストなんて都合良い言葉は捨てて、私が大事だからと言って欲しい。
私も、仕事できそうだねなんて適当に言わずに、あなた自身を素敵だと思いますよって言うから。
いろんなフィルターによってその人自身が霞まないように、一枚一枚めくって、いろんな要素の混ざったただ1人のひとであることをなるべく忘れずに人と接したい。

本当はカテゴライズしたくもされたくない。ただ、ある程度カテゴライズしないと一旦社会を回すには不便だ。それはある程度わかる。
けれどそれは思考を止める理由にはならない。常に最適最高を目指すために、間違いに進んでいかないために、思考し続けなければいけない。

今日もありのままを生きよう。
「女々」しい私も「雄々」しい私もそれぞれ含んだ、女のうちの1人である「私」を抱えて。

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