【映画】平成狸合戦ぽんぽこ
ずっと、見たいなあと思っていたかなりの旧作映画です。感想を記録します。
概要
標題 平成狸合戦ぽんぽこ
監督 高畑勲
公開 1994年
スタジオジブリ作品です。以下ネタバレを含みます。
あらすじ
ニュータウン宅地開発が始まる東京・多摩丘陵。
もともと多摩を住みかにしていた狸たちは、開発を阻止するため、化学(ばけがく)を身に付け、人間たちの邪魔をします。
「多摩ニュータウンの怪」として恐れられるも、開発はやみません。
どうする、狸たち...
感想
東京の多摩地域開発という、実際にあったことをベースに物語が構成されています。ばけがくは使わなかったかもしれませんが、狸もたくさん住んでいたでしょう。
自然を切り崩す宅地開発を風刺した映画でしたが、私には、これは多摩以上に大きなものを風刺しているように思えました。
未知のパワーとの遭遇
私にとって、この映画は、未知の、しかし圧倒的なパワーを持つ侵略者との攻防を描いた物語に見えました。具体的にいうと、植民地時代とオーバーラップして感じられました。
例えば、重機を使って次々と多摩を開発するのが西洋諸国。ばけがくを使って人間に対峙する狸が、西洋列強から自国を守ろうとする日本。
そんなイメージです。
観客として見ていると、テクノロジーを駆使し、圧倒的なパワーを持つ人間たちが、狸の住む多摩を宅地に変えてしまうのは避けようのない結末です。
ただ狸たちは、自分達の持つパワー=ばけがくを磨き、勝てると信じて人間たちに挑みます。
のちに、人間たちの開発の手がとどまることを知らず、自分達には手に追えないと気付いた狸たちは、穏健派と強硬派に内部分裂していきます。
多摩がすっかり人間の手に落ちたあとは、人間の生活にうまく溶け込める狸は人間界の一部として、人間らしく暮らし、それができない狸は限られた土地で細々と、狸としての生活を続けます。
どうでしょう。
今の文化や生活様式を否定する気はありませんが、洋服を着て、肉食になり、西暦を採用し、西洋的ビジネスルールに合わせて生活している私たち自身が、狸の子孫に思えてきませんか。
環境問題や、列強と日本、に限らず、圧倒的なパワーを持って迫り来る他者をどう受容するかというプロセスが描かれた映画なのかな、と、個人的には整理しました。
最後の夢物語から得た教訓
この映画の中で、すっかり変わってしまった多摩丘陵、もとい多摩ニュータウンに、狸たちが一瞬だけばけがくを使って、もとあった多摩丘陵の美しい姿を映し出すシーンがあり、胸が痛くなるとともに、こう思いました。
過去がいくら美しくても、それは過去であって現在ではない。時代の流れのようなものはとどめようがなくて、生きるには、自分をアジャストしていくしかないんだなと。
「消えた」のではなく「消した」
映画の最後では主人公の狸が、観客の我々へむかってこのような言葉をのこしてくれます。
『開発が進んで狐や狸が姿を消した』って。あれ、やめてもらえません?そりゃ、確かに狐や狸で化けて姿を消せるのもいますけど、でもウサギやイタチはどうなんですか?自分で姿を消せます?
この台詞にはドキリとしました。
消したというとまるで自発的にいなくなったように聞こえますが、そうではありません。消える原因を作ったのは私たちで、つまり間接的にであれ「私たちが消した」のです。
原因による結果には正負の側面がありますが、正の側面(この話でいうと新しくできた宅地)は存分に享受し、負の側面(自然が破壊され、動物たちを「消した」こと)は、まるで、自分と関係のないところで勝手に発生したように捉えてしまう。そんな傲慢な私たちに釘を刺されたような気がしました。
例えば近年は、我々の生活様式により気候変動があり、酷暑や災害級の大雨が発生しています。これも、急に増えたのではなく、私たち自身の生活様式が引き金となり発生させたものとも言えるわけです。
どんなことでも自分達が引き起こした結果から目を背けてはいけないよと、この映画に言われた気がしました。
まとめ
この映画に限らずですが、ジブリは楽しさと教訓を両立させていてすごいなと、最近思います。子どもの頃は作品のワクワクした側面しか気づきませんでしたが、この年になって見ると違ったストーリーや制作者の意図が見えてきます。他の作品も見直してみたいです。
実は見たことない人にも、昔見たっきりの人にも、見てほしい作品です。
お読みいただきありがとうございました。
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