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つなげてもらった命を大切に繋げる

私は毎年8月になると自分の命の重みを感じます。

7年前に亡くなった私のおじいちゃんは左腕がありませんでした。でもおじいちゃんはへこたれません!私を後ろに乗せて自転車にも乗るし、洗濯物だって干す、釣りだって名人で、何でも自分で出来るおじいちゃんでした。小さい私は「おじいちゃんはすごい!かっこいい!」と自慢でした。

おじいちゃんが亡くなった年、原爆の日に初めて平和記念公園に行きました。慰霊碑には亡くなった被爆者名簿が収められています。おじいちゃんもその年記帳されました。

友人2人が一緒に参拝してくれました。今ここで思い出して表現しようとしても、書けないような複雑な気持ち。押し潰されそうで、1人ではそんな気持ちを抱えて参拝することは出来なかったと思います。両脇に居てくれる友の笑顔。


晩年のおじいちゃんは穏やかな人でしたが、私が小さな頃は血の気が多く気丈な性格。おじいちゃんの威勢の良い怒鳴り声は日常茶飯事。

私が小学生になり、平和学習の中で身近な被爆者にインタビューする宿題がありました。それまで元気だったおじいちゃんが原爆の話を聞いた途端、口をぎゅっと閉じ右手で目頭を押さえたのです。どんなに辛い想いをしてきたのか、おじいちゃんに大変な事をしてしまった。。。

晩年のおじいちゃん、夏になるとベットの上で目を押さえ泣くのを必死にこらえている姿を何度も見ました。兵隊仲間や当時のことを思い出していたようでした。


おじいちゃんは兵隊さんでしたが、8月6日は体調が悪く数日前から爆心地から1.5kmの日赤病院に入院していました。その日も病室で看護師さんと話していた時にB29を見たそうです。おじいちゃんは壁に沿ったベットに寝ていました。その壁のおかげで一命を取り止めたのです。

電気も水も薬もない病院で、「このまま放っておけば死んでしまう」とお医者さんから言われ、ろうそくの灯りで暗い中、麻酔もなくのこぎりで左腕を切断。薬もなく栄養状態も悪かったので感染症になり「もうこのままここに居ても死ぬだけだから、せめて故郷で死んだらどうか」と言われ、船で自宅に帰ってきました。極度の貧血で真っ白な顔、傷口にはうじも湧きふらふらと故郷の港に命からがら辿り着きました。周りの人は誰もがおじいちゃんは亡くなるだろうと思っていたけれど、おじいちゃんはおばあちゃんや家族の献身的な介護で生き抜いたのでした。


でも本当の苦しみはここから。当時被爆者はひどい差別を受けました。道ですれ違いざま避けて通る人も。その矛先は家族にも。

私が小学生の頃「かっこいいおじいちゃん」が、私より1.2学年上の男子の集団に「テナシ」「テナシ」と笑われ石をぶつけられていたのを目撃した事がありました。とっさに私は「気丈なじいちゃんはうちにこの場面を見られたくないだろう」と察し走って自分の部屋にこもって1人で泣きました。。。


大人になって当時協同研究していた関東の高専の先生がうちの会社にいらっしゃった時、原爆資料館にご案内したことがあります。館内を周りながら、わたしのおじいちゃんの話をしました。

「私はおじいちゃんが頑張って生き抜いてくれていなかったら、この世に産まれてくることが出来なかった被爆三世。今こうして先生とお話できることもおじいちゃんのおかげだと感謝しています」

先生は目を潤ませ初めて原爆を自分の事として実感できた。話してくれてありがとうと言われました。


私はおじいちゃんに十分話は聴けていません。でもいつか原爆を語り継ぐ語り部になる事が夢です。私のいただいた命を、次の世代に繋げていく為に、命の危うさ、命の尊さ、命のあったかさを心から伝えられる語り部になれるよう、人との出会いに感謝してこれからも生き抜いていきたいと思います。

8月6日オリンピックの最中。今年も手を合わせみなさんと共に生きているこの世界に感謝。。。

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