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【読書日記】きりこについて/西加奈子

語り手 ねこ
主人公 きりこ
時代 現代(おそらく、平成21年頃)
舞台 団地・自宅・学校・会社

 自分の世界で「もっともかわいい女の子」として暮らしていた少女きりこは、恋をした相手に「ぶすだから嫌だ」と拒否されたことをきっかけに世間に「ぶす」と「美人」の価値観があることを知り、友達の書いた漫画をきっかけに世間と自分の世界とでは認識が違うことを知る。世間で生きていくことも、自分の世界に戻ることもできなくなったきりこは、つらい現実から逃れるように睡眠障害となり、眠りつづけるようになる。しかし、眠りによって予知夢の能力が開花し、予知夢をきっかけに同じく世間との価値観と戦う女子ちせと出会う。セックスが大好きで、中学の頃からいろんな人と出会ってはセックスを楽しんでいたことから、望まないセックスをされたことを訴えても自業自得だと誰にも取り合ってもらえないちせ。それでも自分は自分として生きたい、したいことはしたいししたくないことはしたくない、それは悪いことではないはずだと主張するちせを肯定し応援する過程で、自分だって自分がしたいようにしてよい、世間でぶすと言われようとも、かわいい女の子として生きてよいのだと気づく。このようにして世間からどう見えようと中身が大切なのだと気づいたことで世間の評価(ぶす)を乗り越えたきりこ。しかし、かつて自分をぶすと言った初恋の男子に再会し、大人なった彼を見て、自分も彼の容れ物(見える部分)だけを見ていたという自分の中にも内在していた世間と同じようなバイアスを発見する。人を構成するものは、容れ物だけではなく、中身だけでもなく、その両方で、これまでの人生すべてがそれを作っているのだと、ようやく中身や外見にとらわれず自分や他人を受け入れることができるようになる。そして仲間と共に、仲間それぞれが作り上げてきた人生を活かし尊重し合いながら目標に向かって活動していく。
 というきりこの人生を、きりこと共に生活する猫が、猫にとってはどうでもよい人間の価値観を俯瞰しながら語っている。人間の価値観などどうでもよいのだけど、猫の価値観ではきりこはすばらしい人間。という、世間、個人、猫の価値観の三層で語られていく。

 とまあ、こういうはなしです。
 自分と世間の価値観(かわいいの基準)が異なることで打ちのめされてしまったきりこと、世間の基準と異なる自分の価値観を否定するのはおかしいだろと戦うちせ。ここの違いは、育ちや環境によるものというよりは、おそらくパーソナリティによるもの。しかし、このどちらが正解とか、優れているとか、そういうことではなくて、それぞれに強さと弱さがあり、一緒に戦うことで補われていくのだなという感覚があった。どちらも、社交的には見えない。けれど共鳴し、お互いが、お互いの強さを発見していく。
 ぶすとは何か、価値観っていったい何なんだろう。わたしたちの価値観を作り上げていく規範はどこからやってきて、その根拠ってなんなんだ。ふと気づくと世の中にたくさんある、だめだって感じるけれど、なぜだめなのかわからない、数々の「だめなものはだめ」なものへの疑問、女の価値や生き方、男の倫理などが詰め込まれている。その全てがまた、猫にとってはどうでもいいこと。という、メタ視点をさらなるメタ視点で見ている構図がおもしろい。そしてその猫の視点もまた、人間から見るとどうでもいいこと。

 そんなマトリョーシカ構造になっているこのはなし。この物語に登場するキャラクターはそれぞれの価値観をもっていて、それが世間を形成している。それぞれの価値観は、それぞれの人生において障害となる。そしてそれぞれがまたそれぞれの価値観によって辿り着いたやりかたでその障害を乗り越えていく。どんな人生にも困難があり、どんな隣の人生も青く見える。それぞれの人生のうまみを味わうその味覚もまた、価値観によるもの。

 さて、この本を読んでわたしは、ついこの間高校生の娘に聞いた話を思い出した。
 久々に中学校の同級生に会った娘は、かつてのクラスメイトたちの噂話をいろいろと聞いた中でハイライトとして選んで教えてくれた「Aちゃんがパパ活をしている」と「Bちゃんが出会い系サイトで次々と男に会い、関係を持っている」という話です。
 中学の卒業を機に分岐した彼女たちの人生は、すでに驚くほど違う方向に進んでいるらしい。身近な人だった女の子たちが自分が想像もつかないような日常を過ごしている事実に驚いている娘。Aちゃんはパパ活で稼いだお金をアイドルの推し活につぎ込んでいるらしく、パパ活に推し活とは、活動的だなと思う。
 でもさあ、Aちゃんにとって推し活がなにより大切なら、そしてパパ活がその手段として妥当と思えるのなら、まあそれがAちゃんの価値観なんだから、楽しいのかもしれないね。人間何に楽しみを見いだすかはその人次第だし、Bちゃんもそれが楽しいなら、それを正しいとか正しくないでは語れない、まあわたしには理解できないけど。法律は守らないといけないけどさ。ただ、何かものすごくつらいことを紛らわすためにそうするのだとしたら、悲しいね。いやそれにしても、そういう世界ってあるんだねえ、以外と近くに
 みたいなことを言うと、「え!ママって寛大!それわたしがAちゃんやBちゃんと同じことを、本当に楽しいからってしてても同じこと言える?」と聞かれて、ちょっと考えた。正直、他人のはなしと自分の娘の話は次元が違う。でも、万が一娘がそれに生きがいを見いだした場合、それをやめるべき、つまり嫌だとと思うのは、なんていうかわたしの問題だ。親としてのわたしが勝手にそう思うだけで、それは娘には関係ないことだと思う。不特定多数の人間とセックスするのはよくないというのは、この日本で暮らす中でいつの間にか植え付けられた価値観のように感じる。そうすべきではない理由はいろいろと考えられるが、その正当と思われる理由をひとつひとつクリアした場合でも、「それならいろんな人とセックスを楽しんでOKだよ」とは言えない感情が、倫理観の奥底にこびりついているのがなんとなく見える。理屈ではないこの感情をリムーブするには、かなりのアップデートが必要。でもわたしは、いざというとき、アップデートしようと試みるかもしれないなと思った。完了できるかは不明だけど。
 だいたい、この日本でパパ活は犯罪なのだろうか?内容によってはもちろんそうなんだろうけど、犯罪ではない場合もあるような気がする。ちせのように14歳の少女はセックスをしていいのだろうか?相手が成人の場合は犯罪になりそうだけど、そうじゃなかったらどうなんだろう。こういうことは、正直よく知らない。わたしの人生に今のところそれを知っている必要がある状況が訪れていないからです。

 「なんでだめなのか」を追求することは、タブーのような気がするし、空気が読めていないのだろうし、そういうことするのはめんどくさいやつ。だめなものは、だめ。

 パパ活をしてお金を稼ぐことは、何人もの人とセックスを楽しむことは、ずるい。そんなことも感情をこびりつかせる成分になっていそうな気がする、そんな梅雨の日でありました。ではまた。

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