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むなしさの源泉を辿る旅④

 封印してきた自分の子どものころを思い出してみると、傲慢だったような気がする。傲慢な子どもってなんかすごいパワーワードだな。根拠はないけど自分を全く疑っていなかった。自分と意見の違う人間をバカだと思っていたふしがある。努力とかはしたことがなかったし、嫌なものは嫌だった。あらゆることをばかみたいだと思っていた。あと、支度とか準備というものもしたことがない気がする。宿題をやったという記憶も一切ないのだけど、さすがに宿題を一切やらずに生きてきた人間を見たことがないので記憶にないだけでやったのかもしれない。ピアノを弾くことが好きだったけど、「習ったことないのにすごいね」と言われたいがために習わなかった。褒められて育ったわけでもないのに、努力しなくても自分にはなんらかの才能があると思っていた。学校に行く意味がわからなかったし、嫌なやつの巣窟に思えた。授業には全く興味がもてなかったし、いつまでもいつまでもかけ算九九ができなかった。だけど努力はしなかった。


 ……うん、やはりわたしはかわいくなかったな。大人から見ても全然かわいくないし、友達にもなりたくない。正直なるべく排除したい。見ているだけでイライラするかもしれない。これに対し、「そんなことせずにみんな仲良くせよ、平等に扱い同じように愛せ」って周囲の倫理観に丸投げ方式で解決しようとするのはよくない。愛される資格自体はだれにでもあると思うけど、愛すかどうかは愛す側次第だ。こういうのは愛す側の人権を何気にないがしろにしている。

 ではそうすると、わたしはどうすればよかったんだろう。どうすれば、わたしは幸せな子どもでいられたんだろうか。そもそも、もしかすると傲慢だった頃は幸せだったのかな。いや、きっと傲慢さに起因する不満でいっぱいだったことだろう。どいつもこいつもってことあるごとに思っている日常が幸せなわけはない。自分の子どもたちを見ていると、やはり記憶の中の自分とはずいぶん違う。子どもは誰でも自信家で、まわりの状況を把握するちからを持つにつれて落ち着いてゆくものなのだとは思うし、わたしの子どもたちにも「なんだってできる感」は感じることができた。が、何かが根本的にちがう!これがなんなのかわたしは考えた。考えて、考えて、そして考えた。そしたら、ひとつの仮説が浮かび上がった。

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