【2024.8フランス旅行記②】旅の目的はこさえるものではなく湧き出る説
旅行のはなしのつづき。
旅ってのはなんなんでしょうねえ。
と思って、旅にかんするエッセイを12冊くらいよんだ。それで改めて思ったことは、旅するひとには具体的な目的あるねってことです。みなさん、見事なまでに、ふらっと旅に出る。そこには、大なり小なり目的がある。さくらももこの旅エッセイを除いて、ただ誰かの目的に同行するだけの旅なんてのを書いてる人はほぼいない。あれ食べたいとか、あれ見ときたいとか、オーロラを見たいとか、アーユルヴェーダであるとか、見たい展示であるとか、こう、一世一代の大冒険!行かずに死ねるか!ってかんじである必要はなくて、あれやりたいから行こうって感じで非常に気軽に旅をしているのです。
そこで、わたしが旅を欲しない、いや欲せない理由の一つに無知があるなと思った。無知の知、発動。知らんとこに行きたいと思うことはそもそも不可能である。同様に、知らんものを見たいと思うことも不可能だし、知らんものを食べたいと思うことも不可能である。知のある方々は、行く先々を知ってるんです。知り尽くしているわけじゃないけど、知ってる。街並みのいたるところにナンチャラ王国の名残があるとか、ホンニャラ革命の教訓によって大切にされてるナントカとか、乾燥した気候とドーノコーノの地形によりアレの産業が盛んで栄えたとか、映画マルマルの舞台になっただとか、行きたくて行く場所だろうと、意思に関わらず仕事などで行くことになった場所だろうと、その場所についてなんらかのイメージをすでに有しており、また、他にもたくさん持ってるいろんな場所のイメージと比較して、その場所そのものを味わってるように見えるのだ。知は他の知とつながり、壮大なネットワークの中で、自然と見たいとか食べたいが湧き出てきちゃってるんじゃないのか、もしかして。
無知、それは好奇心のなさの表れである。人間は、自分に関係あるものしか認識できないんだと本で読んだ。毎日使う駅の前にある建物が壊されたとき、それがなんであったか思い出せないのは認識していなかったからで、自分に関係がないからだ。自分に直接関係がなくても、なんらかの関心があればそれを認識することができる。らしい。それを思うと、わたしがどこかに何かをしに行きたいと思い至らないのも当然のはなしである。これまでわたしには好奇心というものがなかった。引くぐらいなかった。振り返ってみると、わたしがこれまで一体何を見て生きてきたのか完全に謎である。好奇心がないと、記憶同士の結びつきが何も生まれないのではないか。たまに浮かんでくるなけなしの記憶は、どれも独立してただそこに浮遊している……そういえば最近自分にエピソード記憶がまじでないなってことに気づいて唖然としていたのは、この好奇心のなさのせいかもしれん。好奇心がなかったのか、はたまた封じられていたのかわからんが、突然芽生え活性化しはじめた好奇心により、一般的に2〜6歳で起こるという「なぜなに期」に齢40にして突入したわたしは、ことあるごとに夫にこれはなに、これはなぜと幼児のように質問しまくり、「なんでそんなに本を読んでるのに何も知らないんだ」と冷ややかな視線を日々頂戴しております。ありがとうございます。
好奇心がなくても、ひとは生きることができるんだなあとひとごとのように思ったりする。やなせたかしには、なんのためにうまれてなんのためにいきるのかこたえられないなんてそんなのはいやだ!って言われちゃってるんですが、だいたいわたしみたいな人間は、なんのためにうまれてなんのためにいきるのか答えられない人間だと言う自覚がないんだから仕方ないんだよ、たかし。そんなにいやがらないで、たかし。
そういうわけで、わたしがなぜ旅に具体的な目的を持つことができないのか、なんかわかった。まあそんなもの、持ったことがなかったから仕方がなかったんだ。それなのに旅の目的はなんだと詰め寄ったりしてごめんね、わたし。つらかったよね、わたし。次回、それなのに漠然と存在している海外に行きたいという感情について、思いを馳せていきたいと思います。本日はこの辺で。お相手はなのりかでした。
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