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むなしさの源泉を辿る旅⑥

 とまあこのように、わたしは人の気持ちがわからないがゆえに常に不安だったのではないだろうか。と思った。わたしはわたしなりに読めない文字を読もうとしたり、読めないなりにやるべきことをやろうとしたりして頑張っているのだけど、その途方のなさにむなしくなったりしていたのだと思うと、そうだ、そうにちがいない!という気持ちになってくる。広い海の真ん中で、必死に犬掻きをしているようなむなしさ。その集団の中での「ふつう」がより確立されている集団の中にいるときほどもがいているような気がするのです。たとえばそれは、職場。たとえばそれは、女子会。
 こう考えると、わたしはひとの性格とかがよくわからないなと思っていたのも納得できる。みんな他人のことや自分のことをよく説明できるなと思う。ふつうが見つけられないわたしは自分の中に対比するべき基準を持たなくて、ふつうとくらべてどうかによって論じるようなことができないのです。たとえばわたしは、わざわざ「いい人」とか「優秀な人」とか評価されるということがどういう状態かすらよくわからない。みんなだいたいのひとはみんないい人の要素があるのだと思うし、かといって大体の人がみんな「いい人」だけなわけではないと思うし、誰も彼もがわたしより仕事ができると思うし、しかしどれぐらいの差があるかはよくわからない。評価されている人も、その人が「ふつう」と比べてどのくらいできるのかよくわからないし、みんなちゃんとできているようにわたしには見える。少なくともわたしよりは。しかしわたしは、自己評価がマイナスなので「ふつう」の基準にはならないわけです。

 HSPっていう、ひとの気持ちわかりすぎてムリー!ってひとたち話題になったけど、そういうのがあるんだったらわたしはLSPなんではないか。わからなすぎて無限の可能性を見いだしてしまう。無限の可能性ってなんかすごいポジティブワード出てきたけどそういうことではなくて、こういう場合とるべき行動や態度の選択肢を絞れずにいちいち全部並べてしまい、疲れると言うことです。そしてそのリアクションも勝手に最悪なものを想像してしまい、勝手に傷つき落ち込むということです。鈍感力をみにつけて楽に生きようと聞くけれど、鈍感はつらい。敏感のつらさはわからんが、隣の芝生がどうにも青いように見える。ただしこの、わからないからものすごい想像するが、そのどれもがネガティブなのは嫌われまくっていた原体験のによるってよはある。ポジティブならば現実よりもよりハッピーやないの。であればポジティブなLSPしか勝たん。

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