見出し画像

むなしさの源泉を辿る旅②

 小学生のとき、みんなから嫌われていたし、そういえば中学生のときもみんなから嫌われていたし、思い返せば高校のときもみんなから嫌われていた。あれ、なんかこれを活字にしたことははじめてだから、はじめてこのことを視覚的に認知したけど、わたしってかわいそう!わたしを嫌っていない子もいて、そういう子はわたしと遊んでくれたり、話してくれたりした。さらに中・高で2〜3人ずつ仲良くしてくれた子がいて、もうほとんど会わないけど、結婚式に呼んでくれた。いいひと!ありがとう!短大では友だちを作らなかったから、嫌われるどころか多分誰からも認知されていなかった。いつも供に過ごすクラスメイトがいなかったから誰にも好かれなかったけど、嫌われずにも済んだ。嫌われるとやっぱり傷つくから、このほうがいいとハックしたような気持ちに。このあと、このスタイルは今でも続いて、ああ、だから友達がいないのか、ふむふむ。
 とにかく、自分がちゃんと感知できるほどには嫌われていた。嫌う側としても、嫌う正当な理由があって嫌うわけで、その理論でいくと原因を作ったのはわたしなのだから、わたしに嫌いだと気づかれないよう配慮する必要などないと思っている。わたしだって、嫌いなやつには自然とそうしている。嫌いだと直接的に言われることもあったし、変なあだ名で呼ばれていることもあった。みんなから無視されることもあったし、わたしのことは無視しなければならないとルールが敷かれたこともあった。しかしこれがいじめなのかと言うと、よくわからない。ドラマ家なき子で主人公のすずちゃんが食べるよう命じられていた「便所おにぎり(トイレの床に落として踏みつけたおにぎり)」を食べるよう強要されたことや、教科書をビリビリに破られたり、登校したら自分の机の上に菊の花が置かれていたということもないし、いじめではないのかもしれない。あとわたしも多分、それなりに変な面倒くさい子だったのだろうと思う。おそらく生意気だったのではないか。気に入らないことがあれば文句を言っていたような気もするし、誰かの言動が自分の感覚に合わなければ批判していたような気もする。調子に乗っていると思われていたのかもしれないし、実際無自覚に何らかの調子に乗っていたのかもしれない。なんの調子だかわからんが。
 こうして考えてみると、うつ病とかいじめとかってのは曖昧だな。自分はうつ病だとか、いじめられていたとか言うには、確固たる自信が必要な気がする。自信のない人間には、いやいやこの程度で、そんな、おこがましい……と思ってしまうし、まじで人による。これらが気の持ちよう言われるのもなんとなくわかるし、名付けられたことによって爆誕した概念のようにも思える。集団を形成することによって生きながらえてきた人間には、集団に馴染めない(つまり集団の秩序を乱す恐れのある)人間は異物として排除しようとする機能が人間にはもともとあるんではないか。それを理性でダメだということにしているけど、理性を働かせるためには、ほんとうは救われるべき人間として清く正しく優しい守るべき人間要件を満たさなければならない気がする。人間だもの。こうなるといじめかいじめじゃないか、それはほんとうは問題ではないってことなのかもしれない。けれど、それをいじめと判断できれば人のせいにできるし、いじめじゃないとなれば自分のせいとなって、その区分けを明確にする必要があるときには有効なのかしら。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?