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相手に感じる距離感は自分がつくっている

先日、同じ学校で働いている先生のWelcome兼お別れパーティーがあった。
残念なことに私は熱を出してしまい、そのパーティーには参加できなかった。

そして週が明けた今日、同僚(ブータン人)とご飯を食べていたときに、「〇〇先生(日本人)がこの前パーティーでスピーチをしたときに、『昼ご飯を食べるとき、ゾンカ語で話されついていけない時に孤独を感じていました。』っていってたの。あなたも感じている?」
と言われました。

この記事でまさにそのことについて触れていた。

そのスピーチをした先輩日本人先生は、4月にブータンを去る。
私への置土産かな。

はっきり言えない日本人的性格上、「ときどきね」なんていう返事になってしまったけれど、そう感じさせないようにしたいって一人の同僚が言ってくれて本当にうれしかった。
もう一人の同僚は昼ご飯に関してあんまり気にしていないようだったけど、「家で一人でいたら孤独なことある?」「そーいうときはいつでもチャットしてきて、うちに来てね。近所なんだから。」って言ってくれてほっこりした。

熱で寝込んでいた間にも、「どうしてパーティーに来なかったの?」「体調が悪いなら次から私に言うんだよ絶対!」なんて連絡してくれた同世代の先生もいた。

それぞれのやさしさに感謝しつつ、でも家で一人でいるほうが心が安らぐし、気つかわなくて済むし、楽なんだよなあと考えが浮かんだ。

本当にそうなのか?
これが日本人相手だったら違ったかもしれない。熱の日に、ぽかり的なの買ってきてって頼めたかもしれない。寂しい日に家に押しかけることができるかもしれない。
心理的ブロックを自分で作っているんだなと感じた。

もちろんコミュニケーションが満足にとれないストレスはあるけれども、お互いに相手を思い話そう、意思疎通しようと思っていれば苦になることではない。私は自分に堪能な言語での意思疎通以外認められないとブロックをかけているのだろう。相手の言葉が理解できない自分が悪いし、うまく伝えられるよう話せない私が悪いと思っている。でも同僚は拙い英語でも意味をくみ取って話をきいてくれる。わたしも理解できないときは何回でも聞き返していく執念深さが必要。たぶんそう。

言語関係なく、私がリスペクトと関心をもって相手に接すれば、流暢でなくてもコミュニケーションがとれる。それが相手に伝われば、好意的にとらえてくれる人もいる。そこから関係をやっとスタートできる。
基本的なことを見失っていた。

人見知りにとって距離感を縮めることは簡単ではないけれど、せめて相手方が近づいてくれた時に本当の自分を出して接するよう、頑張ってみよう。


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