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教育は何が正解なのか

桜のない4月

4月になった。私の住んでいる山国ブータンでも花が咲き始めて、春がもうきたことを感じる。梅の花はところどころにあるが、桜は見つけれていない。桜は多くの木が並んでいてこそ桜だと認識しているところがあると思う。そんな風景は、あと1回おあずけ。去年、こっから2年見れないのかあとしみじみしながら焼き付けた桜並木が瞼の裏に浮かぶ。地元は桜が有名だった。それもあってか思い入れがある。海外に来て初めて季節が変わった。なんだか自分も新しくなった気になる。

先生としてか、エンジニアとしてか

2月後半から始まった活動も、ようやく1か月が過ぎて何とか軌道に乗り始めようとしてる。中学1年生と高校3年生のクラスをもっているのだが、教える授業内容は全く同じでいいと言われていて。けれどもIT基礎スキル(タイピングや検索能力)の違いはやはり大きく、どう授業に差をつけていこうかと作戦を練っているところ。
中学1年生だと、学校で個人が持っているメールアドレスにサインインしてというのだけでも一苦労。自分の生徒IDを忘れ、パスワードを忘れ、家でアカウント作ってくるのを忘れ、、、同じところで足踏みをしている感覚。でもできる子はできるので、足並みをそろえるためにその子たちを待たせないといけないのが心苦しい。ちゃんと指示ができていないから、おとなしく待っている子もいるけれどYoutubeみたりFacebookひらいたりゲームし始める子もちらほら。
先生としては注意しないとだけど、次の指示を明確にできていない自分にも非がある。それに今はゲームも立派な職業になりうる。できてしまったあまり時間にPCをつかって好きなことをやっているのなら、エンジニアのはしくれとしてはやらせてあげたい気持ちになる。ただそれを許して、やらなければいけない時間にも別のことをし始めるのが一番まずい。それを凌駕する面白い授業にできるだろうか。先生じゃないからこそ持っている視点を使いたい。でも生徒からしたら私はたぶん先生。難しい、難しい、けど楽しいかも。

祈りに捧げる時間

学校のすぐ近くのお寺のようなところでプジャ(お祭り)が開催されていた。先生たちで寄付金を集めお寺にお願いし、学校関係者用のお祈りの時間を用意してもらっているらしく、授業終わりに参加してきた。広場は小さかったがたくさんの像があり、そこに祈るために人々が長い列をつくっていた。
初めて集団でのお祈りに参加して感じたのは、「すごい」だった。いつも一緒に働いている同僚たちとその子供たちが全員で、お祈りのために数十分待って、一斉にお祈りをして、偉いお坊さんに頭コツンと叩いてもらって、そこに何も思っていない。当たり前で、流れるようで、やって当然のこととしてこれらすべてを受け入れている。その世界観は自分にとって居心地がよかった。
私たちが正月に神社でお賽銭を投げ作法に従ってお参りしているのも一緒なのだろうか。建設現場で地鎮祭をするのと似たような感じなんだろうか。
ブータンも日本も儀礼的・形式的であるのは一緒に思えるが、何か違うものを感じる。まだ当てはまる言葉が見つからない。

一通り終わり、最後にたくさんある像に1つ1つお祈りとお賽銭を置いていった。想像よりも像が多く、用意していた現金では足りなくなりそうになっていた時、隣にいた同世代の先生が「大丈夫?extra extra」といってごそっと片手分自分のお賽銭用のお金を私にくれた。それに胸を打たれてしまった。大した金額ではないからかもしれないが、本当に自然に、何のためらいもなく与えてくれた姿をみて、満ち足りているなと感じた。私もこんな人になりたい。幸せの国の片鱗を感じた。

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