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日本のビールの発祥地(横浜・山手)探訪:スプリングバレー~ジャパンブルワリーへ

札幌の Beer+MaltWhisky バー「Maltheads」(モルトヘッズ)です。

横浜・山手の日本のビール発祥地探訪へ行ってきました。

ちょっと古い教科書では、W・コープランドが山手123番地にスプリングバレーブルワリーを開設したことが日本のビール造りの端緒とされています。筆者の住む札幌にブルワリーができたのはもっと後の明治9年です。

札幌のビール歴史探訪はいつもしておりますが、今回はその出張編。横浜で歴史探訪をします。

まずは、地下鉄みなとみらい線終点の元町・中華街駅からスタート。アメリカ山公園の出口を目指すと、地下から一気に山の上までエレベーターで行けます。公園からはマリンタワーが見えます。

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途中に「ブラフ積み」の説明。この先、「ブラフ」という名前があちこちに出てきて、実際にこの積み方の建物が連続するのでチェックしてください。

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まもなく外人墓地に着きました。中にはW・コープランドのお墓があるのでお参りしたかったのですが、一般の人が入れるのは入り口まででした。事前に許可を得ればお参りはできるそうです。

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外人墓地から10分ほど坂を下ると…着きました! 麒麟園公園!

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隣に横浜市立北方小学校があります。小学校の敷地が「天沼」という池だったそうで、その水を利用するために隣接地に建てられたのがコープランドのスプリングバレー醸造所です。当時は「アマヌマ・ビアザケ」とも名乗っていました。

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来た! あれが記念碑だ!画像7

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碑が建てられたのは戦前の昭和11年なので、碑文を読むことは簡単でした。

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この麒麟園公園、ビックリするほど、なんのことはない児童遊園です。実際に碑文の周りで子供を遊ばせている親御さんがいて、碑文の写真を撮ろうとしているとかなり怪しい視線で見られてしまいました💦

ビール好きにとっては「聖地」なんですけどね。もし「これぞクラフトビール」のTV CMでこの公園を取り上げてくれれば、ちょっとは変わってくるのかもしれません。

公園の片隅には、「コープランド」の名前が刻まれた別の碑がありました。「昭和37年2月11日W・コープランド氏の命日に建てる 横浜ペンクラブ」。表面には「文化遺跡 日本最初の麦酒工場」とありました。

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北方小学校脇にある「ビール井戸」。この井戸の水がスプリングバレーで使われていたわけではありません。渋沢栄一も関わったゼ・ジャパンブルワリーのころ(正確にはちょっと前)に掘られた井戸です。脇のプレートには「キリンビールは1888年からここでつくられています。そのころは横浜市の水道がまだここまで引かれていなかったので、井戸水を使ってビールがつくられました。この井戸は1895年から1901年までビールづくりに使われたものです」とありました。

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スプリングバレーブルワリーは、1884年(明治17年)に破産し、醸造所は更地となります。翌年、その跡地に香港法人ジャパンブルワリーカンパニーが設立されました。そして1888年(明治21年)に磯野計の明治屋と販売契約を結び、ラベルに聖獣・麒麟のデザインを施したビールが誕生します。そう、キリンビールです。

スプリングバレーは1回完全に消滅しているので、キリンビールとの直接の繋がりはありません。札幌の開拓使麦酒は連続してサッポロビールとなっています。サッポロの方がキリンよりも歴史が長く、「現存最古のブルワリー」はサッポロビールです。

普通ならここで満足して引き返すのでしょうが、筆者にとってはここからが「本題」です!

明治3年のコープランドのスプリングバレーよりも先に(明治2年)ブルワリーを開いていたと近年になって判明したブルワリーがあります。ローゼンフェルトの「ジャパンブルワリー」です。

その跡地である山手46番地を目指します。横浜のビール歴史探訪の記事を検索してもほとんどがスプリングバレー止まり。46番地まで訪れている方が少ないので、実際に見に行きます。

「ビアザケ通り」という名称そのまんまの道を通り、山手本通りまで行きます。ビアザケ通りはずっと上り坂です。外人墓地からの下り坂も含めて、スプリングバレーはまさに「谷」の底にあった「泉」だったことがわかり感動です。

エリスマン邸からの山手本通りは「尾根」となります。通りの両脇は坂になっています。尾根伝いの山の上がまさに「山手」なのです。番地が次第に若くなっていくあたりも、スプリングバレーが実は「下町」にあったことがわかります。

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汐汲坂というころまでくると、番地が46番地に。近いぞ!

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ここがジャスト(枝番なしの)46番地。

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この建物が醸造所の遺跡というわけではありません。これは昭和に建てられた建築だそうです。調べてみたら今は「BB Studio YOKOHAMA HILL」というハウススタジオとして使われています。誰でも借りられるようなので、ここを使って、日本のビールの歴史講演などしてみたいものです。

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周辺には「ジャパンブルワリー」も「ローゼンフェルト」も一切案内がありませんでした。横浜の人もまだ多くは山手123番の麒麟園公園が「日本最初のブルワリー」と思っているのかもしれません。再評価されることを期待します。

46番地は、フェリス女学院の向かいです。

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隣の44番地はカトリック山手教会。

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山手地区がどこから開発されていったのかはわかりませんが、番地が開発順だとすると、数字が若い46番地のジャパンブルワリーの方が123番地のスプリングバレーよりも「中心地」にあったのかもしれません。

ただ不思議なのが、この山の上で醸造用水をどうやって確保したのかということです。先のビール井戸の説明にもありましたが、横浜市の水道が引かれたのはだいぶ後になってからのようです。おそらく井戸を掘ったのでしょうが、水源にはなかなか苦労したのではないでしょうか。

ジャパンブルワリーは数年で閉鎖してしまい、その後長い間歴史の影に隠れてしまいます。「再発見」されたのは、本当にこの10年くらいの間です。ちょっと古い本では「日本最初のブルワリーはスプリングバレー」と書かれているのはそのためです。

14年も続いたスプリングバレーが池のほとりにあったことは、コープランド自身の才覚を除いても大事な要素だったのかもしれません。

そのまま「尾根」伝いに歩きます。ブラフ18番館から坂を下ると、ゴールはJRの石川町駅です。

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最後にネタばらし。ここまで元町・中華街駅スタートであるかのように書いてきましたが、実際には石川町駅スタートで辿りました。石川町駅から山手本通りまでの坂はなかなかキツかったです。また元町・中華街駅スタートの方がエスカレーターでいきなり山の上の公園に出られるので、そのコースの方が楽だと思います。トータルで1時間程度の距離でした。

ぜひ横浜の「日本のビール発祥地」探訪を楽しんでください。


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