たとえ誰からも愛されなくても

つい最近まで「男性に愛されなければいけないと」と半ば強迫観念的に思い続けてきた。いつの間にこんな価値観が出来上がっていたのかは分からないけれど、特に大学に入って彼氏ができてからは、ほぼ強迫観念に近い考え方になっていたように思う。

彼氏ができる前は「彼氏がいない=自分に魅力がない」ということだと感じていて、とても焦っていた。

大学2年生の時に初めて彼氏ができてから、今に至るまでに数人の方とお付き合いをしたが、いつも私の頭の中には「彼に愛されなければ」という強迫観念があった。

付き合いが長くなると、男性側からのストレートな愛情表現が減ることはよくある話だが、私の場合は彼の行動を細かく観察しては一喜一憂し、常に精神をすり減らしていた。

無駄に観察眼が鋭いのも災いし、何かしらの理由を見つけては「彼に愛されていないのではないか」と不安になって、心が休まる時はほぼ無かった。

よく考えたら(よく考えなくても)大したことないこと、例えば、メールの返信が遅いとか、電話をしている時のテンションがいつもより低いみたいなことだけでも不安になっていた。

積もった不安がピークに達すると、突然泣き始めて別れ話を始めてみたり、深夜にもかかわらず鬼電したり、やけ酒をしてみたりした。大変迷惑な彼女である。相手を試して、自分への愛情を測ろうとしていた。そもそも人間としてどうかしていた。

客観的に考えると、歴代の彼氏は私を大切にしてくれていた人ばかりだった。しかし、何度も泣き喚いて「別れる」→「やっぱり別れたくない」と繰り返しているうちに彼氏の心が離れてしまい、最終的には破局を迎えることが多かった。

自分が彼から愛されているかどうかを確認したいという気持ちが強すぎて、このような行動に出てしまっていたのだと思う。

しかしつい最近、「愛されなければならない」という強迫観念から抜け出すことが出来るようになってきた。まだ完全とはいえないかもしれないが、不安な気持ちになった時に「たとえ愛されなくても私は平気」と思えるようになったのだ。

こう思えるようになったのは、表情豊さんの「あなたの恋が、たとえばうまくいかなくても」を読んだことがきっかけである。是非、元の記事を読んでいただきたいのだが、次のフレーズが私の価値観に大きな衝撃を与えた。

「恋がうまくいかなくても、自分のこともっと好きになれる屋さん」

どう考えても、これになりたい。直観的にそう思った。これまでの私の信条「彼に愛されない自分に価値はない」の真逆をいく考え方である。

この考え方を知った私は「もしかしたら、たとえ恋が上手くいかなくても、彼氏から愛されなくても、私は素敵な人間で、素敵な人生を生きていく権利があるのではないか」と考えるようになった。

数か月前に同棲を始めたばかりで、彼の行動を観察しては落ち込むことを繰り返していたが、彼から愛されているかどうかを確認し続ける必要が無くなったので、メンタルは大幅に改善した。

「一緒に住んでるんだし、私のこと好きなんだろうな」くらいの感覚で過ごせるようになった。これまでの私からしたら大進歩である。

よくよく考えたら、私のことを全力で愛してくれた人がいたことにも気づくことができた。親だ。

父親は昨年の夏に亡くなってしまったが、あれが無償の愛、親から子への愛だったんだなと今更になって気が付いた。ありふれた言葉だが、とても感謝している。

母親とは離れて住んでいるが、たまに電話で話すと、いつも私を心配してくれる。性格は私と正反対なので、少し離れているくらいが心地良いが、話すたびに、愛情を持って接してくれていることを感じる。

こんな感じで、彼氏からの愛情を確かめ続けることを止め、もし愛されなくなったとしても自分を好きであり続けようと思うようになった。

たぶん私のことを一番愛してくれているのは、天国の父、そして離れて住んでいる母だった。

それに、愛情を確かめるようなことを繰り返していては、楽しい生活は送れない。特に私は石橋を叩いて叩いて叩き壊すタイプだから尚更だ。

残りの人生、いつか死ぬのであれば楽しく生きたい。

奇跡的に自分の好きな男が「一緒に住みたい」と言ってくれているのだから、それを信じて気楽に暮らそう。

自分を嫌って、好きな人を試し続けて死ぬのではなく、
自分を愛し、好きな人も存分に愛して死んでいきたい。

この先の人生、たとえ誰からも愛されなくても、
自分だけは自分を愛してあげようと思う。

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