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Bitter Cold -4.てんしのゆうわく

間近で彼の横顔を見ていると、ため息をこぼしてしまう程に美しかった。

男の人に対してそんな言い方は失礼だという事はわかっていたけれど、でもそう言うのがふさわしい。

美形というよりは、雰囲気の持つ美しさ。
「私にも分けてよ」
こう言うと彼は困った顔をした。

天使さえも誘惑してしまうような、深くどこまでも透明で、吸い込まれそうな瞳。
深い深い森の奥に、微かに光が届く "神様が降りてくる" ような、あの神聖な細い光の束が差し込む湖。
それをイメージしてみる。

湖には、名前は知らないけれど枝を大きく広げた木が、 黄緑色の葉を抱えて沈んでいる。
湖は清らかで、細い光を受けて輝いてはいるけれど、常に深い闇が背中合わせて存在していることを感じずにはいられなかった。

光の存在する所には必ず影も存在する。

2つの世界が存在する。
私を抱え込んだまま眠る彼。
白い肩が、静かに上下している。
それにあわせて聞こえる小さな寝息。

彼の寝顔を、ここぞとばかりにじっと見つめ、そんな事を考える。

するとそれに気づいたのか、ゆっくりと瞼が開き “寝ちゃった” と眠そうに呟く。
私はくすくすと笑いながら彼の頬をつまむ。
彼も私の頬を軽く引っ張る。
彼の瞳の中に大きく私が映る。
まつ毛が微かに震えるその瞬間に、あの湖の光景が私の頭の中で鮮やかに映し出されるのだった。
夢の中のようにぼんやりとしているのに、その光景は薄暗い中にも輝きがある。
私は服を脱いで湖を泳ごうとするのだけれど、どうしても飛び込めない。

溺れそうで、不安になって飛び込めない。

沈んだ木は静かに小さな泡を吐き続ける。
天使が彼を誘惑している。

彼の瞳の中で浮遊する天使たち。
あなたたちもきっと、溺れてしまうよ。

* * *

出会ってから季節が一巡して、また冬が来た。
彼はもう私に敬語を使わなくなっていた。
いつものように外を散歩してきた後、彼の部屋に行った。

玄関に入ってすぐ、お揃いのマフラーを外すのももどかしいほどにキスをしていると、コートのポケットの中の彼のスマホが震えた。電話の着信。
取り出した際に私は表示された名前を見てしまう。

”麻美子”

彼は画面を確認するとすぐにポケットに戻した。

名前を知ったのは少なからずショックだった。

私は彼を突き放すように押しのけて、マフラーも外さずにベッドへ1人ダイビングをした。
そして見たことのない恋人 “麻美子” さんを勝手に想像してみた。

髪は長くて細身できれいな人で、すごく大人の雰囲気のある女性を想像してみた。
すると、私とは正反対の女性になった。

嫉妬なのか何なのか、胸が疼く。
「電話、出なくていいの?」

機嫌悪そうな顔してコートを脱ぎベッドに腰掛けた彼に向かって私は言った。
「うん、別にいい」

いつも彼は恋人の事をあまり話さない。最初は私に一応気を使っているのかと思っていた。

「彼女とうまくいってないの?」

冗談で言ったのに彼は怖い顔をした。
「お前、今そんなこと言う?」

私は激しい胸騒ぎに襲われた。

彼を私のものに出来るかもしれない。
そう思ったからだ。
彼女から奪えるかもしれないと。

誰かが泣いても傷ついても、他人を蹴落としてでも彼が自分だけのものになって欲しいと、 その瞬間、思った。

暖房の空気が循環して、窓ガラスは水滴をつけ始める。
私は窓へ目を向けた。
外はもう闇がしん、と降りていた。

「前に言った事、あったっけ?」

私はその窓ガラスを眺めながら言った。

「何を?」
「私ね、曇ったガラスって好きなの」

理由も聞かずに彼はふーんと言って私の頬を撫でた。

やがて彼が私を抱き起こすと、 マフラーを外しコートを脱がせるとそのまま抱き締めた。
白いシャツを通して、彼の匂いや鼓動や体温が伝わってくる。

「男の子みたいな目をしてるよ」

私は彼の鼻筋を指でなぞりながら言った。
「私はね、そのきれいな目がとっても好き」

本当は全部全部大好きなのだけど、言えなかった。言わない事にした。

すると突然、彼の瞳の中で私が揺れた。
私は動揺した。

彼の前で揺れたり切なくなったり、 そういった一面を見せるのがすごく嫌だったけれど、この時ばかりはあまりにも意表をつかれたので、私も油断してしまった。

…再び彼の電話の振動が空気を裂いた。

彼はしばらく出ようとしなかった。
「また電話、 だよ」

そう言ったらやっと立ち上がり、 私に背を向けて出た。
彼は真っ白のシャツの背を少し丸めて椅子に座った。
彼女と話す時は、なめらかで落ち着いた声で話すのだという事を知った。

私はセーターを脱いで、彼に背を向けてベッドに潜り込んだ。
穏やかで落ち着いた、囁くような声が嫌でも聞こえた。
短い会話だった。 話の内容まではわからない。
切った後の余韻の中で、微かなため息が彼からこぼれた。

「ふられたの?」
首だけ彼の方を向けて私は聞いた。

「違うよ」
そう答えて彼は立ち上がった。

「ね、窓少し開けて」
お願いすると彼は “暑いの?” と訊いた。

「空気を入れ替えないと、頭が痛くなるよ」

彼は窓をほんの少し開けた。静かな夜の音が入ってくる。
この静けさが好きだった。

「寒くなるよ」
彼はそう言って再びベッドの縁に腰掛ける。

私はいたずらっぽく笑いながら彼の背中を抱き締める。
彼も向き直り、正面から私を抱き締める。
温かい身体、いつもの彼の香り。
次第に頭がぼんやりとしてくる。
彼は腕を私の背中に回しただけで、 それ以上何もしなかった。

「何か変な感じ」
私が笑いながらそう言うと、彼は “何が?” と尋ねた。
「彼女と話した後に、こうやって私を抱きしめてる事が」
彼はそれには何も答えずにそのまま抱きしめていた。

「あなたは変だなって思わないの?」
ちょっといじわるだったかもしれない。
それは私の激しい嫉妬。
答えられたら本当は悲しくなるのに。

「水滴がついた曇ったガラスってね、こっち側は暖かくて、向こう側は寒いわけでしょ? それって何か似てるって思うの」

彼は黙ったままだ。

「たった1枚の薄いガラスを隔てて、全くの別世界が存在するの。暖かい世界にいるのが “麻美子さん” でね、寒い外側が私なの。窓ガラスはあなたね」

そのガラスを壊したら、 どうなるかな。

言おうとしたけれど、言えなかった。
本当に何かが壊れる事は、私が一番恐れてるのかもしれない。

「私もう帰る。 遅くなるとお母さんがうるさいし。もう窓、閉めてもいいよ」
脱ぎ捨てたセーターを拾って着た。

「今日は送ってくれなくていい。 1人で帰るね」
ひょっとしたら不自然だったかもしれないが、言ってしまったから仕方ない。
何か言いたそうな彼だったが、 強引に部屋を出た。

あのままいたら帰れなくなりそうだった。

1人で中央線下り電車に乗り込む。
乗客はまばらだった。
私は一番隅のシートに座り、鼻から軽くため息を吐いて瞳を閉じた。

そして、イメージしてみる。
地図の上で真っ直ぐに伸びる中央線 暗くて静かな住宅街を一筋の光が突き進んでいく。

夜の静寂を裂いて、 中央線は走る。 ちっぽけな私を乗せて。
ぽつんぽつんとした、 遠近の家々の灯り。
灯りの中には温かな家族の団欒があり、 笑い声が聞こえる。

その笑い声の中に、私を待っている人がいるのだと考える。
いつかさりげなく出逢って言葉を交わして、私たちはお互い待っていた人なんだよ、と認識する。
お互い少し遠回りをしながら、ある日突然、出逢う。

ただ、今は少し、いえ、かなり切ない。
鈍い痛みを感じながら、どこまでも堕ちていく。
私に天使の羽根は無いから。

気が狂いそう。

でも、私はここから能動的に抜け出そうとはしていない。

私は彼の恋人なんかじゃない。
なのにこうして何度も逢うことを繰り返している。
このまま進んでも待っているものは何か、お互い感じているはずなのに。

駅に着いた。

一歩降りると空気が冷たかった。身を切られるように寒い。
吐息は真っ白に、真っ黒に澄んだ空へ消えていく。
住宅街の隅で猫が鳴く。
静寂はいつも誰かに破られる。
月の照らす公園にも、北風は忍び込む。

寒くて自然に早まる足。
星を数えながら歩くと首が痛くなってくる。
冬の空ってこんなに真っ黒なんだよ。
きっとあなたは見ていないだろうけれど。

いきなり空が霞んだかと思うと、喉の奥がじんとして、熱い。

私は泣いていた。
泣いたからって何かが変わるわけでもないのに、 涙が零れていた。




つづく


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