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Bitter Cold -5.にばんめでいい

明るい曇り空の午後、初めて1人でカフェへ来てみた。

外は北風が渦巻いている。
街路樹の尖ったこげ茶の枝が私の心をチクリと刺す。

この前、彼からかかってきた電話を初めて無視した。
バカみたいに強がって。

それからしばらく連絡が来なくなり、あの時ほど後悔をした事はなかった。

不在着信の履歴に空しく残る彼の名前。
どうして素直になれない?

全てはこの前彼の部屋で、彼女の存在を意識したからだ。
胸騒ぎはやがて熱い嫉妬となっていつまでも私の中にいる。

嫉妬は時に強がりとなり、時にいじけ虫となり、寂しさで身体が引き裂かれそうになる。

「寂しいよ」 って言えたら、どんなに幸せなんだろう?
せめて声だけでも聞けたなら、どんなに安らぐだろう?

私たちは事務的に会うことはない。ただの2人だから。
初めはそれでも良かった。

でも段々と私の中を占める彼の割合が増えてくると、それはただの我慢になった。
不倫でもないのに我慢をしなければいけない。
私は、恋人でも愛人でもないから。

やがて彼と初めて会った時に飲んだ、 ブルーティーが運ばれる。
ラベンダーの香りがする。
ほんのり甘くて、名前の割りには赤い色をした紅茶。
砂糖は入れずに少しずつ飲む。
じんわりと胸に広がっていくのを感じる。

でもそんな温かい紅茶も身体の中で急速に冷めていく。
通りを行き交う恋人たちをぼんやりと見る。

そして、私はどうしてここにいるの? と問いかける。

どうして彼は彼女がいるのに連絡してきたのだろう?
どうして私は彼に恋したのだろう?
どうして彼に出逢ってしまったんだろう?

あの日、私がもう1本違う電車に乗っていたら。
出逢いなんて全て偶然が重なって出来るものだけど。

自分の身体の中で少しずつ変化が起きている。
それは日に日に大きな渦となる。
1人でいる時に彼の温もりや表情を思い出して、身体が震える事さえある。
授業中でも、 友達とおしゃべりしている時でも。
"彼女がいる人とあんな風に会うなんて、なかなかスリリングだよ "
そういって友達と笑い合った日はそんな遠くはないのに。

外は北風が渦巻いている。

ふいに一台の車が店の前に止まった。
運転席にいる男がこっちを覗き込んでいる。
私は “あっ” と小さく叫んだ。
テーブルの上に置いたスマホが震える。

「…もしもし?」

運転手がスマホを片手に話しているのが見える。
電話の向こうは笑っている。

『何やってんの?』
「え…あ、お茶してた…」
『1人で?』
「う、うん…」

彼だった。
信号は青に変わり、車は滑るように視界から消えた。

「びっくりした…」
電話の向こうではまだ笑っている。

『出てくれば?』


外は凍りつくように冷たかった。
雨か雪が降りそうで降らない、真っ白な空。

信号の50メートルほど先の所でハザードを点けて止まっている車が目に入る。
小走りでそこへ向かう間、鼓動がどんどん早くなる。
走っているせいだけじゃない。

ドアを開けると、 心が溶けそうな彼の笑顔。

「1人であそこにいたの?」
さっきと同じ事を訊く。

「そうよ。たまにはいいでしょう?」
心とは裏腹に、 言葉だけはいつものように強がりで生意気な私になる。

私がドアを閉めるとすぐに走り出し、通りを右折する。

「携帯かけながら運転してたら、 捕まるよ」
「じゃあ、 かけなかったら良かったか?」

彼も少しいじわるそうに笑って言った。
私は黙って首を横に振る。

それから彼は新宿まで送る、と言った。
「新宿まで? ひょっとしてまだお仕事中?」
「そうだよ。今、何曜日の何時だと思ってる?」

「寂しいな」
自分でも驚いた。寂しいなんて言葉が出てしまうなんて。

「珍しい事言うね」
彼も少し驚いた顔で私を見ていた。

「だってせっかく逢えたのに、もう帰るなんて」

彼はうーんと唸った後、どこかへ電話を2~3件かけ、じゃあ帰ろう、と言った。
あまりにもあっけなく言う彼に、私は驚いた。

「いいの?」
「その代わりほんの2時間ばかりしか取れないけど」
と、前を向いたまま彼は答えた。


もう何度目だろう、この部屋に来るのは。
部屋の中に彼女の私物らしきものが増えていないか、怯えてしまう。

ベッドにダイビングすると、微かに香るすずらんの香水。
…こういうこと。
ごくごく最近、彼女が来ていた事を物語る “証拠” たち。

「彼女とうまくいってるの?」

強がりな私が、聞きたくもない事を訊く。
「関係ない」
会社のスマホをチェックしながら彼は答える。
「そうね…」

何かが変わっていく。
ここにいる事が辛くて仕方ない。
私は枕を裏返しにして、それを抱えて顔を埋めた。
あまりにもやりきれなくて。

ベッドが軋んで彼が座る。そして私の頬を撫でる。
「まだ寂しい?」
彼がそう訊いて、ほんの少し枕から顔を離して彼を見上げる。
その隙を見て彼は私の両手首を取り、ベッドに押し付けた。

「何考えてるんだよ?」
彼が私の頬を両手でぷにぷにとつまみながら訊く。
「教えない」
声が震えそうになるのを抑えて答えると、彼は私の頬に噛み付いた。
「いたい」
思わず声を上げると彼は笑った。

瞳を閉じて、余計な考えを頭から退けるように努めた。
彼だけを感じていられれば、他は何もいらないのだから。

暖かい彼の身体が私を包み、中心を貫くとそれは熱く変わる。

数センチの距離の彼の瞳に私が映っている。
あなたこそ、何を考えているの?
お互い大切な言葉は何ひとつ言わないでここまで来たよね。

そんな事は別にいいのかもしれないけれど。

でも、私たちって何なのだろう?

「ね…」

ん? と彼が耳元で聞き返し、私の頬や耳たぶにキスをする。

“私って、 あなたの何?”

そう訊こうと思ったけれど、訊けなかった。
私を覗き込む彼の瞳があまりにも優しかったから。

それなのに、出てきた言葉はいじわるな言葉。
「彼女と同じベッドで私を抱くって、どんな気分?」

彼は動揺もせずに答える。

「複雑な心境」
ちょっと、困ったように微笑みながら。

あまりにも素直に答えるものだから何も言えずにいた私に彼は訊いた。

「そういうの嫌だよな。普通はそうだよな。俺がおかしいんだよな」

ううん、と私は首を横に振っていた。
「いいんだよ、私は…」

あなたといられるだけで。
そうだよね。 答えはそれだけだよね。

たったそれだけあれば、どんな悲しみや切なさも越えられるはず。
1人ぼっちよりも、何百倍もましなはず。


2時間経つ前に彼は私を家まで送り、再び車に乗って去って行った。

ひとり、部屋で手鏡を覗いてみる。
鎖骨と胸の間にくっきりとついた、赤い跡。
狂いそうになる。

服に、髪に微かに染み付いた彼の匂い。
こんな風に彼の身体にも、あのすずらんの匂いが染みたのかな。

私は頭を振って髪についた匂いを吸い込んだ。
そんな邪念を払うように。
そしてベッドの上で膝を抱えてみる。

I miss you.

その意味をこんなにも痛感するなんて思わなかった。
あなたがいなくて、こんなにも寂しいなんて。

数時間前まで抱きしめられていたその感触を何度も何度も繰り返している。
もう、こんなにも離れられなくなってしまった。
どうにもならない恋なのに。

私はいずれ彼とは離れて、違う人と恋愛をするのはもう決まった事なのだ。 例えその相手がまだ見ぬ人でも。

私は…、自由に会えもしない、束縛も出来ないセカンドガールだから。
きちんと付き合うにはあまりにも不釣合いな、二十歳前の子供だから。

でも今は。

そんな人と早く出会えない不安より、彼のそばにいられなくなる事の方が不安だった。

今まで守ってきたものを一気に壊しても良いのではないかと思う。
どうせ初めから、終わりを覚悟してきたのだから。

たとえただのふたりだとしても。




つづく


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