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【連載小説】奴隷と女神 #48

そうして私たちは10月12日に入籍した。

特に何の意味もない日にち。11月22日のような『いい夫婦』的な語呂合わせが、私も響介さんも苦手だった。だから語呂合わせも、2人にとっての記念日でも何でもない。
敢えてお互いの記憶力を試すような、そういう日にした。

2人で区役所に届けを出し、指輪を交換した。
響介さんは私の左手を取ってキスをした。

一通り終えると、お互いホッと一息ついた。夢のような瞬間だった。

記念の夜は池尻大橋の『オステリア・ボーノ』でささやかなお祝いをした。

気さくな雰囲気で、3種類のオリーブオイルでバゲットを味わえたり(私はシチリアの青みがかかったオリーブオイルが気に入った)、色んな野菜のマリネ、丸ごと玉ねぎのローストなど、野菜料理をたくさん楽しめるのが良かった。
ピッツァも2人でシェアして食べた。

ワインでほろ酔いになったところを、手をつないで歩いて家まで帰る。

夜風はまだそれほど冷たくはなく、いつまでも歩いていたいような、素敵な夜だった。

少し寄り道して、目黒川沿いを散歩する。

「今日からまた、スタートだね」
「はい」
「いつまで僕に敬語使うつもり?」
「あ、クセになっちゃうとなかなか切り替えられなくて…」
「いいけどね。ベッドの上でだけ砕けるのも、それはそれで」
「ちょっと、もう!」

パシッと軽く背中を叩くと、響介さんはあはは、と笑った。

「環と志帆に私のウエディングドレス姿、絶対見たいって言われました」
「僕だって見たいよ。むしろ僕が一番見たいよ」

目黒川に架かる橋の上で立ち止まり、響介さんは後ろから私を抱き締めた。

「環たちが私が響介さんといるところ見たいから、早くお披露目パーティしてって。それか家に遊びに行かせてって」
「なまじ顔を知っているだけに恥ずかしいな。でも」
「でも、何ですか?」
「小桃李にドレスは着せたい。暖かくなってからがいいかな」
「…そうですね」
「桃か李の花が咲く頃がいいかな…。ちょうど3月か4月、5月頃だよね」
「響介さん…」
「名実共に小桃李が最も美しく咲き誇る季節だ。楽しみだな」

川沿いの、色づき始めそうな秋の桜の葉が風に枝を揺らし、川面には街の明かりが煌めいていた。

* * *

ベッドに入り、響介さんは私の左手の指輪に口づける。

そして私の首筋の…1年前の誕生日にもらった極細のベネチアンチェーンにもキスをする。

何度身体を重ねても、彼の唇は柔らかくて首や肌に触れられるだけで意識が飛びそうになるほど感じてしまう。

「響介…」

以前は私が彼の奴隷になれればいいのに、と思っていた。
ただ彼自身も、囚われの身だったなんて思いもしなかった。

月の女神が、ゼウスの息子Endymionのその美しさをいつまでの眺めていたいと彼を永遠の眠りにつかせ、側に置いたというあの神話。
その神話を名に持つ香水『ENDYMION』を響介さんは付け、彼の元奥様は『LUNA』を持っていた。

彼のその『ENDYMION』の香りが、私を誘惑した。
けれど彼の身体からは今はもう、香らない。

身体を密着させた響介さんのなめらかで、薄っすらと汗を滲ませた肌に舌を這わせる。
その時に彼の吐息や漏れる声を聞くのが好きだ。

彼は身体を起こし私を見下ろす。

この目を見るたびに私は征服された気持ちになる。
最強の剣を持った王に征服されるような悦び。

けれど。

「小桃李、本当に綺麗だよ…女神そのものだ…」
「いや。私は女神になんかならない」

なりたくもない。

響介さんはフッと笑った。

「そうだよね。小桃李はそんなことしないとわかっているけど、僕はもう囚われたように生きて行くつもりはない」
「今度は響介が私を囚えていいのよ」
「それも嫌だ。僕は小桃李を奴隷なんかにはしない」

彼の指先が私の前髪をすき、額から頬を滑り、首筋から鎖骨を撫で、胸に下りる。そして脇腹を通って両腿を広げ、律動を深めた。

「壊して。響介の中でバラバラになってしまいたい」

彼の左手が私の首に伸びる。

もう怖いからしたくないと言っていたけれど、私が得る快感によって彼もまた快感を得るのだ。

くっと、手にほんのすこし力が加わるとちょっとだけ苦しくなって、頭が真っ白になる。

「きょ…すけ…愛してる…私の全てを壊して…支配して…」

首から手を離した彼は私の腿を抱え、足首に口づけをする。

「僕だって小桃李の全てに屈しているのに…支配なんて…」

そして身体を密着させると、顔を近付けて響介さんは言った。

「僕たちは僕たち以外、何者にもならない」
「うん…」
「神話でも何でもない、僕たちはありふれた夫婦だ。帰る家に灯りのともる、ごくありふれた家族だ」

そんなことは私にとってはひとつの小さな夢でも、響介さんにとっては切実なものだった。

「そうね…」

そう答えて強く彼を見つめ返した。
安心したように微笑む、愛しい人がいた。




#49へつづく

【紹介したお店:オステリア・ボーノ】


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