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【連載小説】奴隷と女神 #27

翌週ようやく出社し、先輩の垣内さんからは酷く心配され、課長からは庶務が回らなかったことを少し皮肉られた。

仕事に没頭するしかない。何も考える隙きを与えないほど、山積みになった業務を黙々とこなした。

曜日が変わり部長会の時間が近づくとさすがに心穏やかになれなかった。きっと顔を合わせることになる。
なるべく意識しないことだ。目を合わせないことだ。

議事録席に着き、私は俯いた。顔を上げないようにしよう。
部長らが入室する際は目を閉じた。

けれど私は。

俯いて目を閉じてさえ、響介さんの気配がわかった。
あの香りがしたわけでもない。
でも彼がいつもの席に着席したのがわかった。

胸が苦しくなる。破裂しそうだった。

「それでは始めてください」

役員の号令で会議は始まった。ボイスレコーダーがONになっていることを確認して俯いたまま、妙な姿勢になって議事を始めた。各部署の報告が進められていく。
15分ほど経った時、

「それでは営業戦略部からの案件進捗のご報告をいたします」

響介さんの声が響くと、息が止まりそうになる。

彼の声は普段は柔らかなのに会議では、そしてなぜか今は一際、ピリッとよく通る気がした。

仕事だから彼の話す内容もメモを進める。春先に向けての営業キャンペーンの企画と、キャンペーン終了後の顧客定着案、それに伴う売上予測、営業担当者への報奨金の金額とそのランクについて要領よく報告された。

役員からのツッコミにも惑うことなく答えていく。
さすがだ。

罪を犯してまでも私が好きになった人なのだから。


会議終了後、ボイスレコーダーをOFFにし、設備の片付けをするために顔を上げた時。

他の部長たちがどんどん退席していく中、響介さんだけが自席で立ち上がったまま、こちらを見ていた。

目が合ってしまい、私は慌てて顔を逸らす。逸らしたまま前方に移動して設置されたプロジェクターの設定をデフォルトに戻していると、彼が私の背後をすり抜けていくのがわかった。

『ENDYMION』は香らなかった。

それでも、わかってしまう。

* * *

翌日、金曜の昼休み、環と志帆がやってきた。

小桃李ことり~、復帰して無事1週間経ったし、快気祝いってことで今夜、ちょっと一杯引っ掛けない~?」
「行こう行こう!」

私よりも2人が盛り上がり、私たちは仕事帰りに飲みに行くことになった。

お店は大抵環が決めてくれる。
今回は会社の近くにある『セラフィーナニューヨーク』。ランチでもたまに利用することがある、いわば私たち定番のイタリアンだ。

「じゃ、小桃李の回復を祝しまして、乾パ~イ!」
「ありがとう。ちょっと大げさだけどね」
「いいのいいの、何かにかこつけて集まりたいだけだから。ね、志帆?」
「うん。私も最近全然飲みに行ったり出来なかったから。でも年度末もうすぐ迎えるにあたって、ようやく開発案件が1つ着地するから、一息するなら今のうちかなって」
「そうだよ、もうしばらくしたら年度末だもんね。あ、GW、また3人でどっか旅行行かない? 今からだったら志帆も有給入れられるんじゃない?」
「いいね、どこ行く?」
「たまには近場でグルメ三昧とかいいかもね! 台湾、シンガポール…マカオとかもいいかな」

2人は盛り上がっていく。私は口角を上げて、付き合う。

いつか響介さんに、私はだいたい同期の中では大人しく、ただついていくだけなんです、と話した時。

『僕と2人でいる時はそんな雰囲気、感じないのにな』

と言われたことがある。付き合い始めて最初の頃だった。

『そんな人が僕に向かっては猪突猛進だったじゃないか』
『それは…たぶん響介さんも私と同じ気持ちなんじゃないかと思ったからです』
『視線を感じることが多かったから、気にかけてくれているんだろうなとは思っていたよ』
『やっぱり気づいていましたよね』
『小桃李がわかりやすいんだよ』
『この子は俺に気があるな、と思ったから相手してくれるようになったんですか?』
『そういうのがキッカケじゃだめなの? 相手が先に好きにならなくちゃ気が済まないの?』
『…』
『今はこんなに参ってるっていうのに』

そう言ってあの時、響介さんは両手で私の頬を包んで、恥ずかしげもなく真っ直ぐに私を見つめた。

『目を逸らしたら負けね』
『私が勝ったら何してくれますか?』
『何して欲しい?』

そう言って、笑みを浮かべながら鋭い目で私を見つめる。

ずるい。
勝てるわけがない。

「ちょっと小桃李、聞いてる?」

環の声にはっと我に返る。

「ごめん、聞いてなかった」
「もー、何考えてたの? ボーっとしちゃって」
「もしかしてまだ本調子じゃないんじゃない?」
「う、ううん。体調は本当に大丈夫。で、何の話?」

環が呆れたようにため息をつくと「営業部に中途で入ってきた、なんかいかにもなキラキラ女子のことだよ」とその人の名前を告げた。

「え、ごめん。誰だっけそれ…」
「社内では結構有名人にのし上がったと思うけど? 小桃李は総務にいながら意外と疎いのね、そういう話」

疎いと言えば疎いかもしれないが、そもそも興味がない。
他人のゴシップなど、どうでもいいのだ。
自分のことも立ち入ってほしくないから。

「見るからにだったけど、結構媚び売って歩いてるって話で、営業一課の課長を手籠にしたとかなんとか」

心臓が跳ね上がった。志帆もため息をつきながら言う。

「たまにいるよね、相手が既婚だろうがなりふり構わないタイプの女の子って」
「それだけじゃなくって、青山にもいい寄ってるらしいんだわ。青山本人から聞いたの」

青山くんはこの前の環のストーカー騒ぎの時にヘルプしてもらった、営業部にいる私たちの同期だ。

「なーんかいるんだねー、本当にそういう女子って、って思って」
「青山くんは何て言ってるの?」
「まー俺は相手にしないけどね、とは言ってたけど、どうだろうね」

そうか。環はあの一件でもしかしたら青山くんのこと好きになったのかもしれない、と思った。

それにしても不倫の話は…しないで欲しかった。
特に今は。




#28へつづく


【紹介したお店:セラフィーナニューヨーク】

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