【連載小説】あなたに出逢いたかった #16
10月最初の土曜日。
数日前までじっとり高い湿気を帯びた風が嘘のようにカラッとし、筆で掃いたような雲が青空に広がっていた。金木犀が陽の光を受けカーネリアンのように輝き甘く芳しい匂いを放ち、道端に落ちた花は金平糖のようだった。
金木犀もまた、強い風に儚く散る、梨沙が最も好きな花の一つだ。
家には高校の友だちと買い物に行く、と言って出てきた。遼太郎は先日梨沙がクラスメイトと揉めたと切なく打ち明けてきたが、それが解消されたのだろうと思い、ホッと胸を撫で下ろした。実際は嘘だから、何も解消されていないのだが。
昨日届いたHinaからのメッセージにはそのように書かれてあった。稜央が演奏する時間や場所ははっきり決まっていないらしく、ジャムセッションといって自由参加形式のところに出るらしい。場所がわからないのではどこに向かって行けばよいのかすらわからないが、そこは地元っ子のナビゲーターを頼るしかない。
「梨沙!」
桜木町の改札を出たところで威勢の良い声を掛けられる。
待ち合わせた康佑は彼なりにめかし込んでいるのか、adidasのグリーンのパーカーにジーンズ、足元は更にブルーのadidas。
梨沙は黒いワンピースにデニムのジャケットを羽織り、足元は黒のPuma。今日はパパのパーカーを着てこなくて良かった、と思った。
「ほんじゃま、行くか。梨沙がジャズ聴くなんて意外だな」
「聴くっていうか…知り合いがどこかのセッションに参加してるかもしれないって聞いて」
「あ、そうなんだ。場所は?」
「それが…ジャムセッション? どこでやっているのかよくわからなくて」
「知り合いなんだろ? 連絡して聞いてみればいいじゃん」
「連絡は…直接は取れなくて」
康佑は不可解そうな表情を浮かべた。
「でもお前、ライブは本当にあっちこっちでやってるぞ? あたりを付けないと厳しいな」
「私は全然わからないから君を呼んだんだけど」
「そうでしたか。…ま、しょうがないな。とりあえずちょっと歩いてみるか」
康佑は歩き出し、梨沙は半歩後をついて行った。
確かに街のあちこちから音楽が聴こえ、異国のようなそうでないような、不思議な空気が流れていた。
梨沙の方は結局ジャズの予習は『ケルン・コンサート』しか聴けず、しかも憶えてきているわけではない。稜央と会った時に少しでも会話が成り立ったら良いなと思っていたのだが、それは無理のようだ。クラシックの方もあまり知らないのに…。
しばらく闇雲に歩いてまわる。有料ライブが行われている場所は出演者が記されているが、そこに稜央の名前はない。街角でふらっと演奏しているバンドもいくつもあったが、そこにも稜央の姿はない。
無謀なのかと思う。でもこんな限られたエリア内にいるのだから、歩き回っていればいつか見つかるかもしれない。だって、ベルリンで出会うくらいなのだから、という期待も残っている。
*
「腹減ったなぁ。梨沙は腹減らないの?」
かれこれ1時間以上歩いたがお目当ては見つからず、どこからか漂ってきたカレーの匂いに康佑が言った。この匂いは確かにそそられる。
「別にどっかで食べても良いけど…」
梨沙が言うと康佑は目を輝かせて「良いね! じゃ早速」と、匂いの方向にあるカレー屋に入って行く。梨沙もそれに続いた。
梨沙は知らなかったが、横浜はカレーが有名らしい。ベルリンでインドレストランに行ったことはあるが、カレーといえばいわゆる家庭のカレーで、外食で食べた事がほとんどない。
その店はインド・スリランカ系ではなく、日本人が独自にスパイスを調合して作っている店らしかった。
「色んな種類あるなー。梨沙は何する?」
「野菜のカレー…にしようかな。あとマンゴーラッシー」
「いいね。あ、カレーの辛さを凌ぐのに水は飲んじゃいけないらしいぜ。甘いのがいいんだって。だからマンゴーラッシーは理にかなってるんだぞ」
唐突に蘊蓄を垂れる康佑を鼻で笑い、窓の外に目を向けた。
通りを多くの人が行き交う。この人混みに稜央が紛れているかもしれないと思うと落ち着かない。
梨沙は窓の外に目をやったまま、言葉を発しない。
「…梨沙、今日の知り合いって、どういう知り合い?」
カレーが来るまでの間、康佑は尋ねた。梨沙はどこまで話そうかと考える。嘘をつくのは本当に苦手なのだ。
「…ベルリン留学中に偶然会って…その人ピアノ弾いてて…それでちょっと喋ったの」
「へぇ」
康佑は関心があるでも全く無いでもない声色で相槌を打った。
「…だけど連絡先は聞いてないってか」
「うん…そこまでは別に…」
「でも今日ここに来てると」
「噂で聞いたの。本人とは話してない」
「なるほどね」
そこへ注文したカレーがやって来て「まぁとりあえず食うか!」と康佑は豪快な笑顔を見せた。
家で食べているカレーと全く違う味に梨沙は目を丸くした。独特なスパイスの味がする。どちらが好きかと言われたら普段のカレーの方が好きかもしれない。康佑は「旨っ」と感嘆しながらモリモリ口に運んでいく。
「この話すると怒るかもしれないけどさ、片想いの奴とはその後、どうなったの?」
一口ずつゆっくり食べていた梨沙は案の定、ムッとした顔を上げた。
「まぁまぁそんな顔すんなって。前に言ったろ? 笑ってる方が絶対いいことあるって。まぁ…ツンデレの梨沙もいいっちゃ良いんだけど…」
後半消え入るように言った言葉も梨沙の耳には届いており、ツン、と顔を背けた。
そういうところが康佑のツボに入ることを梨沙はわかっていない。
「相変わらず、片想いのままだけど」
「いいのかよ、それで」
「良くないよ。でも諦めなきゃいけないかもしれない」
「えっ…なんで?」
康佑が少し動揺したような表情を浮かべた。梨沙にはそれが鬱陶しかった。
「なんで諦めるん?」
「…」
「だってめちゃくちゃ好きなんだろ、そいつのこと」
「もう、いいでしょ何でも。突っ込まないでよ」
「…ごめん」
珍しく、康佑は真面目な顔をして謝った。梨沙は一気に食欲をなくし、スプーンを置いた。
「食べないの?」
「もうお腹いっぱい」
「じゃあデザート食うか?」
「いらない」
「…」
やはり機嫌を損ねてしまった事に康佑は話題を振ったことを後悔した。あんなに好きそうだったのに諦めなきゃいけないとは、何があったのだろう?
「ま、出来る限りお目当ての知り合い探して回ろうぜ」
気を取りなおすように少々声を張った康佑に、梨沙は再び窓の外に目をやった。
*
歩いている途中で康佑がイベントマップをもらってくれ、そこにおおよその演奏場所が記されていた。
「これを頼りに行けば会えるかもしれないぞ」
「うん」
本当に会えるかもしれない、と思うと急激に緊張してくる。そして父親に内緒で来たことへの背徳感。
もし彼に会ったら、自分の気持ちはどう動くのだろう?
わからない。なんとも言えなかった。
様々な想いが交差する。
#17へつづく
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