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【連載小説】天国か、地獄か。祈りはどっちだ。#2-5

香弥子さんは食べる手を止め、少し不安げな顔で僕を見つめた。

「お兄さん、何か話していましたか?」
「話してくれないからあなたに訊いているんです」

香弥子さんは目を逸らして、ラッシーを飲み干した。

「僕は香弥子さんが兄の事を好きなのか、と思いました。でも兄は違うと言いました」
「えっ…?」

香弥子さんは明らかに戸惑った。

「香弥子さんて、兄のこと好きですか?」

そう訊くと香弥子さんは目を大きく見開いて「何を言うんですか!?」と言った。

「そんなわけありませんよ! だってお兄さんはご結婚されているでしょう? しかもあの日は娘さんと一緒に来ていらしたじゃないですか?」
「世の中には結婚していても子供がいても関係ないという人もいるでしょう」
「違います! 隆次さんの誤解です!」

香弥子さんは怒ったような顔をした。僕は素直に「ごめんなさい」と謝った。香弥子さんも感情的な声を上げたことを謝った。

「その…お兄さんと隆次さんのことについてお話はさせていただきました。子供の頃はどんな感じだったのかとか…」

「ろくな話出ませんでしたよね。語れるようなエピソードなんて何もない。聞くに耐え難い話ばかりだったと思います」

「そんなことありません。隆次さんは小さい頃から数学が得意で、お兄さんもすごく驚いたって。教えてもらうこともあった、って話されていました」

「数学に関しては確かに、僕の能力を早くから発掘してくれたのは親ではなく兄です。今でも感謝しています。いや僕は親に感謝したことはほとんどないですが、兄にはいつも感謝しているんです。むしろ兄は僕にとっての神です。あぁそうですね。香弥子さんがムスリムなら、僕の信仰の対象は兄ですね」

香弥子さんは目を丸くして僕の話を聞いていたが、やがて口を結んで頷いた。

「隆次さんにとってお兄さんの存在がとても大きいこと、よくわかります。お兄さんがいてくれて本当に良かったなって」
「一度は裏切られたんですけどね。僕を置いて家を出ていってしまったのだから。たった一人の僕の味方がいなくなってしまったのだから。それも人間にとって最も大切な時期にです」
「その時、お兄さんを恨みましたか?」

僕は少し考えた。

「…恨んではいないです」
「でも裏切られたと感じたんですよね?」
「はい…でも恨んだかと言われると…ないですね。寂しかったです。すごく寂しかった」

香弥子さんは優しく微笑んだ。

「でも今はあんな風に寄り添ってくださっていますよね」
「はい…感謝しています」
「お兄さんも、離れて過ごしている間はきっとお辛かったろうと思います」
「…」
「隆次さんがお兄さんを恨んでいないことも、お兄さんにとっては幸せなことだと思います」
「…そうだといいんですが」

* * *

食事を済ませた僕たちは店を出て駅に向かって歩き出した。

「そういえば子供の頃の僕の話を聞いて、どうしようとしたんですか?」

そう言うと香弥子さんは少し言葉に詰まった。

「今度…改めてお話します」
「そうですか」

駅のホームでは反対方向なので、改札を入った所で「それじゃまた来週」と別れた。

家に戻って兄に電話をかけ、香弥子さんが何を話したのか教えてくれなかった、と伝えた。

『そうか。まぁ焦るな。今度改めると言ったんだろう?』
「兄ちゃんは何か知っているんでしょう?」
『さぁな。俺からは何も言わないよ』

僕は会話の中で『信仰』という言葉を口にしたが、その『信仰』というものが自分の中でもじんわりと温かみを帯びているのを感じていた。
あのジャーミイにまた行ってみようと、と考えていた。

* * *

土曜日に東京ジャーミイがガイド付きの案内を開催していることをホームページで調べたので、兄にも香弥子さんにも告げずに出かけた。

指定の時間に訪れると、見学に集まったのはその日は8人。
ガイドを担当する、トゥルク系と思われる彫りの深い顔立ちの年配の男性が流暢な日本語で挨拶した。しかし

「こんな顔をしていますが僕はこれでも純粋な日本人です」

というのでひっくり返りそうになった。

香弥子さんも話してくれたように、東京ジャーミイはほとんど全ての材質をトルコから取り寄せ、職人も呼んで建てたそうだ。
1階の案内をしてくれている最中にアザーンが響き、ちょうど僕が圧巻に感じた2階のモスクにどこからか男性たちが集まりだした。

「ちょうど礼拝の時間です。後ろの方で静かにしていただければ、中で見ていただいても構いません」

ガイドの男性がそう言って中へ入れてくれた。入口横の隅で邪魔にならないように固まってみんな正座した。
男性の礼拝(サラー)がどのように行われているのかをガイドは教えてくれた。

僕は本当に不思議な気持ちになっていた。
整然としたサラーは清々しさを覚えた。神と1体1で対話するというのも、より神聖なものを感じた。

まるで宇宙に放り込まれたというか。でも決して暗くはなく(実際モスクの中は白い壁を基調としているのでとても明るかった)、とにかく心地良かった。
この前バザールに来た時に感じたのと同じだ。
こんなに安らかな気持ちになることがあるのか。

サラーが終わってひっそりしても、僕は目を閉じてそこにいた。
どこかの窓が開いているのか、風を感じていた。
冬がすぐそこまで来ているというのに、暖かかった。

ふと、いじめられていた頃の事を思い出す。
小学校ではクラスメイトたちが意味のわからないことを囃し立て、中学校では上級生にトイレに連れ込まれて頭から大量の水をかけられた。

あの時僕は、神はいても僕には幸福を与えないのだと思った。
兄は出ていくし、両親は無関心だし。

僕は、頭を垂れて神と対峙し祈りを捧げる人たちを目の当たりにして、僕の考えが間違っていたと悟った。

神に対しては祈りを捧げるものなのだということを。
ただ祈るのだということを。
僕はおこがましかったのだ。

そんな思いが巡る中、目を閉じたままでいるとまた脳内で音楽が流れ出した。

The Beatlesの『Across The Universe』だ。
時が子供の頃に巻戻り、水のように流れ、ここに還ってくる。

僕は相変わらず心地良く、頭も足も上下も左右もぐるぐるになって宇宙をたゆたった。



#2-6へつづく

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