【連載】運命の扉 宿命の旋律 #48
Nocturne - 夜想曲 -
都心を走る稜央。
大通りの車のテールランプが滲む。
息が上がって立ち止まり、ナイフを放置してきたことに気づく。
目に入った公園の公衆トイレに入り、鏡を覗き込む。
目が異様に吊り上がっている。
そんな自分の顔に驚いた。
アイツが自分で自分の頬を切った。
その後、揉み合いになってアイツの身体に馬乗りになった時、俺が彼の身体を傷つけた感触はない。というか、憶えていなかった。
“俺が…やったのか…?”
不安になり自分の服や顔や手をチェックするが、返り血のようなものを浴びている様子はなかった。
仮に浴びていても、いつもの黒い服はそういった見た目も隠してしまう。
一通りチェックして一息つくと、急に力が抜けてその場にへたり込みそうになった。
公衆トイレを出てベンチに腰掛ける。
俯いて両手で顔を覆う。
女性の叫び声が耳の奥に残っている。
恐怖のあまり大きな声を出すことが出来ない、振り絞るような叫び声。
そして自分を睨むアイツの目が、下睫毛のラインが朱くなっていたのが、脳裏にこびりついている。
五感の全てに、一瞬のワンシーンを焼き付けられている。
そして自分は何がしたかったのだ、と改めて考える。
アイツが死ねばいいと、本気で思ったか。
でも俺、アイツが血を流しているのを見て、本気でビビってた。
もし俺がアイツを刺したのだとしたら。
萌花は、母は、どう思うだろうか。
母のことを思い出した時に、涙がこみ上げてきた。
稜央はベンチで俯いたまま、号泣した。
* * *
稜央が萌花のマンションに戻ってきたのは、22時を過ぎていた。
「おかえり、遅かったね…」
しかし稜央の青ざめた顔、憔悴しきった様子に萌花はしばし継ぐ言葉を失う。
「稜央くん…何かあったの?」
稜央はそれには答えず、ベッドに倒れ込んだ。
心配になった萌花は稜央の肩に触れると、彼はビクっと身体を震わせ、その手をはね退けようとした。
そんな態度に萌花はショックを受け、稜央もまたそんな態度を取ってしまったことに自身で驚いた。
「ごめん…萌花。今日はちょっと疲れてて」
「もしかして野島さんに…会ってきたの?」
萌花がそう言うと稜央は怯えた顔をした。
「そうなのね…。それで、何かあったのね?」
萌花はなるべく柔らかに語りかけ、稜央の髪をそっと撫でた。
「萌花…俺…アイツに…」
しかしそれ以上は言い淀んでいる。怯えた様子に、何かショックな事を言われたのかもしれない、萌花は思った。
以前遼太郎と対面で話した時の威圧感、彼の態度を思うと、稜央は何かつらいことを言われたのだろうと思うことは容易だった。
まさか稜央が凶暴なことをしたとは、全く思わなかった。
杉崎の事件の時とは様子が異なったからだ。
「稜央くん、話せなかったら今直ぐ言わなくてもいいよ。ゆっくり休もう」
萌花の言葉に、稜央は再び涙ぐんでしまう。
萌花は稜央をそっと抱き締めた。
* * *
タクシーは遼太郎の家の前で停まった。
血の気がなく、少し朦朧とした遼太郎が心配だったが、これ以上何も出来ない、と有紗は唇を噛んだ。
抱き寄せていた腕をほどき「大丈夫ですか」と月並みの声をかける。
大丈夫なわけないのに、と思いながら。
それ以外の言葉は、今この場所では言えない。
既に彼の家族が待つ家の前、なのだから。
遼太郎は力なく「大丈夫」と答える。それも月並みだ。大丈夫でなくたって、大丈夫と答えるしかない。
遼太郎が車を降りようとした時にふらついた身体を、有紗は支えた。
ほんの数センチの距離に彼の鼻先があった。
吐息もかかる距離。
視線が絡み合う。
しかし遼太郎は有紗を車の中へそっと押しやった。
「ありがとう。気をつけて帰れよ」
遼太郎はそう言って札を数枚運転手に渡し、タクシーを出させた。
有紗は振り返り、リアウインドウ越しに彼の姿を見つめ続けた。
彼もまた、見えなくなるまでその場で車を見送った。
タクシーが去ると、遼太郎はこんな状態の自分を妻には見せられないと考える。
見上げると部屋の灯りは点いている。
帰宅時間を問うメッセージの回答から、更に2時間近く経ってしまった。
帰宅して遼太郎は玄関から一番近い場所にある自分の部屋に直行した。
案の定、夏希が声を掛けてくるが、時折自分が部屋に籠もる状態になることを彼女は理解しているので、深くは訊いてこない。
すまない、と遼太郎は心で謝った。
こんな自分の態度が夏希を傷つけることはわかっている。優吾でさえ指摘するくらいなのだから。
夏希に悔し涙を流されたこともある。
けれど彼女もまた、そんな自分を知ってくれているからこそ、こんな時でもしつこく問いただすことはしない。
最近こんな状態になったのは彼…稜央の存在が原因だ。
なかったことにしようと押し込めてきた。
確かなものは何もないと言い聞かせてきた。
夏希を、最愛の女性を守るために。
しかし時折悪夢が襲った。
学生服姿の少年が、夏希に何か話しかけている。
その夏希が驚嘆し、信じられない、どうして、という目で自分を見てくる。
少年が振り向き、嗤う。
“忘れるなよ。なかったことにするなんてズルいだろ”
そう警告されている気がした。
しかし確認する術なんてなかったし、今この時まで何も起こっていない、とその度に遼太郎は自分に言い聞かせた。
だがやがて、遼太郎は日常的にその存在を強く意識せざるを得ない状況ができる。
夏希との間の息子の誕生である。
自分に似ていたら…そう考えると恐ろしくなった。
愛する妻の夏希に似ていてくれたら、どれだけ愛しいだろう。
けれどもし自分に似たら…愛せる自信がなかった。
常にあの "学生服" を意識することは恐怖だった。
その存在が夏希をどれだけ傷つけ、悲しませるのか。
その結果、自分から離れていくかもしれないという恐怖でもあった。
しかし遼太郎はこの時、別の大きな過ちを犯している。
夏希はどんなことがあっても遼太郎からの愛がある限りは離れることなんてしないほど、遼太郎を深く愛している。
そのことに気づいていない、という過ちである。
痛み止めを病院で飲んだがため処方してもらっている睡眠薬を飲むことが出来ず、眠れないまま夜が明けた。
翌朝になってもやはり部屋から出ること無く、会社を休む旨を夏希に告げ、食事も摂らなかった。
息子、蓮の泣き声が聞こえる。
もうすぐ2歳を迎えようとする長女の梨沙は大人しい。
そんな2人の子供に今、夏希は一人で向かい合っている。
部屋の鏡に向かい、右頬のガーゼをめくってみる。
横一直線の切り傷は、テープで貼り止められている。縫うほどの怪我ではなかった。
シャツの左腕を外す。痛みに少し顔を歪める。
左の鎖骨下辺りから上腕にかけて傷があり、外科処置を施されている。
“なんて言い訳をしようか…”
一体何を考えているんだろうな、と自嘲する。
そこで急激な睡魔が襲い、遼太郎はベッドに倒れ込んだ。
* * *
名前を呼ぶ声で目を覚ます。辺りは既に暗い。
ドアの向こうで夏希が呼んでいる。
さすがに丸一日、食事も摂らずに一切顔を出さないのだから、限界なのだろう。
遼太郎はぼんやりする頭を軽く振って立ち上がると、薄くドアを開いた。
元々黒く大きな瞳の夏希だったが、心配で見開き、ますます大きく感じられた。
部屋に入れて、という彼女を拒み、ドアを閉める。
ドア越しに夏希のすすり泣く声が聞こえる。
守りたいがために、傷つけている。
嘘を重ねてまで守るものなんて馬鹿げていると思っていたのに、いま自分がまんまとその術中にはまっているじゃないか。
優吾に言われた言葉を思い出す。
俺は何を守ろうとしているのか。
それは本当に、夏希自身なのだろうか。
俺も限界だ、と遼太郎は感じた。
ため息を一つつくとドアを開け、夏希を中に引き入れた。
互いの凍てついた塊を溶かすように、2人は抱き合い、それはやがて激しく燃え上がるものへと変わっていった。
夏希は怪我を気にしながら、遼太郎は怪我を気にせずに。
子供が出来ることは恐れるのに、愛する女に自身を遺したい。焼き付けたい。支配したい。
矛盾した遼太郎の想いは、時に女の身体に、記憶に、深く跡を遺す。女の小さな叫び声が、遼太郎を狂わせていく。
女もまた、この男の子供を宿すことに狂おしいほどの喜びを得る…。そして誇り高く思う。
桜子もそうだったように。
このままひとつになったまま、遠いどこかへ行けないものだろうか。
何も考えなくても良いどこかへ。遼太郎は考える。
俺はもう疲れた。
夏希を抱いて、その顔を見つめ、そのぬくもりを全身で感じていられるのなら、他にはもう何もいらない、と思った。
このまま夏希と、ひとつになったままでいられるなら。
どんな地獄でもいいんだがな、と。
激しい熱波が引き、腕に夏希を抱き2人静かに余韻に委ねていた時。
その腕の中で夏希の言った言葉に、遼太郎がこれまで張り詰めさせていたものがぷつりと切れてしまった。
「この前家の近くで、あなたによく似た男の子が私に話しかけてきたの。僕は過去から来ましたって…まるで本当に青年時代のあなたが現れたようで。白昼夢だったのかな…。だんだん怖くなったほどなの…あれは…遼太郎さんだったのかな…? 過去のあなたが私に何か…伝えたいことがあったのかな」
#49へつづく