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【連載小説】鳩のすむ家 #8 〜"Guilty"シリーズ

~由珠子


家の前まで野島さんと一緒に来た。玄関を開けようとすると、鍵が掛かっている。私は鍵すら持たずに飛び出していた。

"チャイム、鳴らせよ"

野島さんが携帯で誰かと話しながら顎で促す。恐る恐る鳴らすと、ドタドタドタと大きな足音がし顔を出したのは…父だった。

「由珠…だ、誰だお前は!」

野島さんの顔を見るなり、ものすごい剣幕になった。その声に奥から母と祖母も出てきた。

「由珠子!」
「あんた誰だよ! 由珠子を連れ回していたのかい!? 警察呼ぶよ!」

電話を切った野島さんは飄々とした表情で「呼びたければどうぞ」と言い、

「申し遅れましたが、私は区のスポーツセンターで由珠子さんに弓道を教えている野島と申します」

と頭を下げた。

「弓道?」
「お前か、スポーツセンターで由珠子をたぶらかしていたのは! 早く、警察、呼んで!」

祖母が母に怒鳴りつけ、私の腕を引こうとした。
咄嗟に野島さんが私の腕を取り、袖を捲り上げた。

「ご家族の皆さんはこの痣…見覚えありませんか?」

祖母の顔が憤怒に赤く燃えた。

「由珠子に触るんじゃない!」
「訊いていることに答えてください。これ、あなた方のどなたかがやったんですよね。これは虐待ではないのですか?」
「ぎ…虐待…」

その言葉に慄いたのは父だった。

「出し抜けに何を無礼な!」
「言いがかりつけるんじゃない! 由珠子からその手を離しなさい! この変質者!」

祖母がヒステリックに叫び、いつの間にか手にしていた竹定規を野島さんに向かって振りかざす。その間母は口に手を当てたまま、何も言わない。

「お歳の割には随分威勢が良くて乱暴ですね。お元気なのは結構なことです。ですが言いがかりかどうか、お祖母さん、あなたが一番よくご存知のはず。家の躾が随分厳しいようで」
「赤の他人が、ひとの家の事に口出しするんじゃないよ!」
「赤の他人だから、口出しするんだよ」

突如凄みを増した野島さんの声に、家族も、私も一瞬怯んだ。

「身内の中に放り込んでしまったら、うまいこと隠蔽されかねませんからね。躾のためなのか、憂さ晴らしのためなのかは知りませんが、恒常的にやられているのだとしたら立派な犯罪ですよ。警察を呼べば彼女は保護されるでしょう、危害を与えるこの家から」
「…! さっきから勝手なことばかり…!」
「さぁ、どうしました? 通報はしたんですか」

その時、背後で別の声がした。

「由珠ちゃん」

振り返ると、石澤さんが心配そうな顔をして立っていた。野島さんも振り向き、頭を下げた。

「石澤さん、夜分遅くにすみません」
「連絡もらったのよ、野島さんから。助けて欲しいって」

交番から家に向かう途中で野島さんが電話で話していたのは、石澤さんだったのだ。彼は再び家族の方を向いた。

「あなた達が通報しないのなら、僕からします。家人から暴力を振るわれているようだから、対処して欲しい、とね」
「だから…何を根拠に…」
「彼女が言いましたよ。この痣は祖母にやられたのだと。それに今、あなたが手にしている物が何よりの根拠です」
「由珠子…!」
「僕も似たような経験をしたのです。だからピンと来たんですよ。彼女はまだ18歳になっていませんね? 児童相談所への連絡も可能でしたが、もっと急を要する避難場所が必要だと思い、知り合いを呼んだのです。さすがに僕の家で保護するわけにはいきませんからね」

その時、家の中から鳩が鳴く音が聞こえてきた。1回、2回、3回…

ぽっぽー。
ぽっぽー…

私は石澤さんに駆け寄った。

「助けてください」
「由珠ちゃん…」

野島さんは携帯を取り出し、本当に110番に掛けた。



23:01。
お寺なのにデジタル時計か。別におかしなこともないけれど。
お寺と言ってもここは庫裡…金曜日にお茶を習いに来ている茶室の隣の和室だ。ほんのりと白檀のお香の匂いがする。

到着した時は既に布団が敷かれていた。マンション住まいの石澤さんが東先生に連絡を取り、こちらの方が広いからと泊められるように連絡してくれていた。
更に東先生は刺激の弱い湿布をたくさん用意してくれていた。寝巻き代わりの浴衣に着替える際に身体中の痣を見て言葉を失い、眉間に皺を寄せながらそっと患部に貼ってくれた。

「由珠子さん、大変だったわね」

寝る前のお茶は寝付きが悪くなるといけないと言って、白湯を持ってきてくれ、一息ついた時にポツリと先生は言った。

野島さんが警察に電話を掛けると、祖母が通報はするなと叫んだ。感情が振れている祖母を見て、石澤さんは私の肩を抱いてここまで連れて来てくれた。
野島さんはあの場に残っていた。どうなったのだろう。

「ご迷惑おかけいたしました」
「よろしいのよ。妹から電話が来た時は流石に驚きましたけれど…」

白湯を飲みながら、他人の家なのに温かさを感じて、何だか寂しくなった。

「まさか福永さん…お祖母さんがそこまでしているとは…厳しい方だとは思っておりましたけれども…」

経緯は石澤さんから聞いたようだ。

「普段からそんなに厳しく…叩かれていたの?」
「そんなにいつもではありません。子供の頃はよく叩かれましたが、最近は余程の事がない限りは」
「けれどそんなに…痣になるまで…」
「いつもはお尻を叩かれます。どんなに赤くなろうとも目立たないでしょう? でも今回は嘘を付いて違う場所で弓を引いていたから…男の人がいる場所で、弓道を隠れ蓑にやましい事しようとしたんだろうって…だから弓を引けないようにすると言って、腕を叩かれたのです。それを偶然、野島さんが…弓道場にいる方ですが…その方が気づいて。家から逃げ出して走っていたら、偶然前から歩いてきたのです、その方。"俺も子供の頃、同じ目に合った" なんておっしゃって…」

感情が錯綜し支離滅裂になり上手く話せなかったが、溢れる思いにまた、涙がこみ上げてきた。
東先生は私の頭をそっと撫でた。白檀の香り。丸いけれど、どこか尖った香り。

「救世主が現れたのね」
「救世主…」

野島さんは…何と形容して良いかわからない複雑な香りがしたけれど、言うならば尖っているようで、鼻腔を過ぎると丸くなる。

あんな…普段は冷たくて口も悪くて、偉そうにしている嫌味な人だと思っていたのに。
桜の下で…悪魔みたいな様相していたのに。

"大丈夫"

私に2回、優しく、そう言った。
耳に残る声。気怠さと甘さの、大人の男性の匂い。

救世主だなんて。

「野島さんはどうなったのでしょうか…」
「さぁ…尚子もあなたを連れてここまで来ましたし…。今夜はもう遅いですから、明日訊いてみましょう」
「いえ…結構です。ありがとうございます」



その夜。
他人の家なのに、鳩のいない夜は静かで、私は久しぶりにぐっすりと眠ることが出来た。



***


師走に入り、祖母は体調を崩し、入院した。血圧が云々とか逝っていたけれどよく憶えていないし、覚える気もない。
父はほぼ病院に入り浸りで付き添っているとの事で、元凶がいない事もあり私は鳩の家に戻っている。

お茶や弓道には通っており、東先生や石澤さんが時折家の様子をチェックしてくれている。児童相談所がどうのこうのという話にもなったけれど、元凶が不在なので、信頼できる近隣者が密に連絡を取ることとなった。

更に母は離婚を決意したという。祖母のことは「早くくたばればいいのに」と言った。母も積年の思いがあの夜をきっかけに吹き出したらしい。

離婚したら私はどうなるの、と訊いたら、あなたの好きにしなさい、もう子供じゃないんだから、と言われた。

「とりあえずあたしはこの家を出るわよ」
「…私は? 一人暮らしも可能になる?」
「あたしには付いてくる気はないってこと? フン、好きにすればいいけど、お金に関してはあなたがお父さんに交渉してよ。まさか働けないでしょ、あなたは。世間知らずで育ってきたのだから」

それ、あなたにも責任があるでしょう、母親なのだから。
いつもオロオロするかイライラするかして、あなたは何もしてこなかった。

「大学はどうなるの」

私は併設の大学に進学することが決まっていた。

「通えると思うわよ。仮に離婚が決まっても、あなたが卒業するまでは養育費としてしっかりもらっていくつもりだから。だってそうでしょう? 義母さんが勝手に決めた学校なんだから。ま、行きたくなきゃ辞めたらいいじゃない。勝手にして」

…野島さんは、大学進学時に家を出た。

"鳥籠を壊せ、福永"

あの人の言葉が甦る。

居間に向かい、掛けてある鳩時計を外し、ゼンマイを抜いた。

「これ、捨てて」

母に渡す。自分が投げ捨てても良かったけれど。

「うるさがっていたものね、あなた」

母は鳩の住む黒い家を押入れの中にしまい込んだ。

これで今夜から静かな夜を過ごせるようになる。小さいけれど、私、一歩を踏み出したよ、野島さん。

「とりあえず、私はこの家にはいたくない。ひとまずお母さんに着いて行く」
「はいはい。狭いアパート暮らしになると思うけど文句言わないでよ」


父が家に帰ってくると、両親は離婚に向けてかなり感情的なやり取りを繰り広げた。それでも祖母と鳩が不在であることは、私にこれまでにない安らぎと熟睡をもたらした。
父と母、どっちがどうなろうとどうでも良かった。


私は、鳥籠から…鳩の家から出ていくのだ。
さようなら、って。






#9へつづく

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