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【連載小説】鳩のすむ家 #14 最終話 〜"Guilty"シリーズ

~純代


私は目を閉じた。当然の展開だ。
唇が触れる。一度。

あぁ…遂にこの瞬間が来た。
こうなる事をどれほど望んで来たか。

一度、唇が僅かに離れる。
二度目。野島くんの唇が私のそれを覆うように口づける。

三度目。温かく滑らかな舌が滑り込んでくる。頬に触れていた彼の手が首の後ろに滑り、私の襟足をすくい上げた。彼のシャツの襟を摑もうとしたその手首を摑まれ、押し倒された。

淡いライトが、私を見下ろす野島くんを照らす。
その表情は…何と言ったらいいだろうか。

「ほんとに…望んでるの?」
「…なにが」

野島くんは私の上に跨り、両手首を押さえつけた。
私に対してどんな思いを持って、今こうしているのか知りたかった。
だって、とてもムードに酔った顔なんかしていない。そういう人なのかもしれないけど。

「…まぁ、望んでなくても…別に好きでもなくても抱けるんだもんね、野島くんは」
「…」

私また、余計なこと言ってると思った。でも何かを言わずしてこの場の空気を乗り越えられそうになかった。

「でもね、ずっと羨ましかったんだよ、そういう女の子たちのこと。私が一生懸命頑張っても、その子たちには叶わないんだって。野島くんの身体を知ってるって、それだけで羨ましくて、悔しくてさ。だってさ、私、ずっとずっと近くで野島くんのこと見てきてさ…」
「野口」
「濃い時間を過ごしてきたと思ってる。そういう自負はある。でもさ、野島くんが "別にどうでもいいんだ、あんなやつ" なんて言ってる女の子のことより、私の方が劣ってるっていうかさ…」
「野口が劣っているわけじゃないよ。そういう目で見てないから」

"特別な存在" という、中途半端な枠組みにいる私、だからか。

「わからないかもしれないけど、男には征服欲ってものがあるんだ。釣った魚には餌をやらないってよく言うけど、身体を征したら気持ちは醒めていく。それでもまた肉体は欲する。だからまた捕まえる。ヤれば束の間は満たされる。でも時々虚しくもなる。野口に対しては、征服したいとは思わない」
「それ…野島くんが前に話していた、学生時代からずっと好きでいる人も、そうだった? 一番特別な存在でしょう?」

私はわざと、野島くんの心をずっと摑んだままの、学生時代の彼女を引き合いに出した。なんとかして性的な思いを掻き立てたかったからだ。

けれどそれは失敗だった。ここで過去の扉を叩いてしまった私、野島くんは思わぬ方に向けて開いた。

「…彼女は…また違う…。むしろ…俺が狂わされた」
「狂わされた?」
「彼女は…」

野島くんは私から目を離し部屋の壁を、いえ、そのもっと向こう、とてつもなく遠いどこかを見つめた。

「…高校の入学式を終えて外に出ると風が吹き抜けた。桜が満開を過ぎて…まるで雪みたいに舞っていた。その桜の中に彼女がいた。背が高くて、背中まで伸びた髪は桜と同じ色に透き通っていて、強烈な印象だった」

野島くんの口から出た "束の間の情緒" に驚く。彼はこの場所から心を飛ばし、扉の奥へ時を遡っていく。

「あの日、生まれて初めて一目惚れした。彼女とは最初はクラスメイトとして接していたけど、そのうちどんどん好きになって…。同じ部活になったけれど踏み込めなくて、高校卒業間際でやっと付き合い始めて、すぐ大学進学で遠距離になった。当時の俺、本当に金がなくて生活は苦しかった。学費もそうだし、生活費も親を頼ることはしなかったから。地元に近寄りたくない俺のために、休暇になるとあいつがバイトした金でこっちに出てきて、狭くて古めかしい俺の部屋に滞在する関係がしばらく続いた。そんなあいつが健気で、俺のために一生懸命で…それで俺もますますのめり込んで…」
「それで、狂わされたってこと?」
「狂ったように愛し合った。会えば獣のように身体を貪り合った。それこそ寝ても覚めても。あいつの白い肌がすごく綺麗でさ…。それをめちゃくちゃにしたくなるんだ。痣のように俺の跡を付けて…離れても俺のものであるように、身体中に噛みついたり吸い付いたりして真っ赤な跡を残した。薔薇みたいで…すげぇきれいだったんだ…」

うっとりとうわ言のように綴られた言葉に、私は顔をしかめた。

「彼女…嫌がらなかったの?」
「喜んでたよ。離れても近くにいてくれるような気持ちになる、って。あいつも俺の肩に思いっきり噛み付いたりしてさ。お互い傷のように跡を付けたら、心にもそれが深く残るような錯覚起こしてたんだ」

私はぐっと唇を噛み締めた。そんなに激しい愛を交わす相手への強い嫉妬。
けれどそんな私など意に介さない様子で、野島くんは過去の旅人のまま話を続けた。

「…遠距離恋愛は返って良かったと今では思う。近くにいたら、あいつはもっと不幸になっていた。それこそボロボロになって…。怖かった」
「怖い?」

野島くんは私を凝視した。唇を震わせ、再び壁を…その向こうを見つめた。

「そんな風にあいつのこと狂おしいほど好きなくせに、本当に生活はきつくて、バイト先で知り合った女のところ転がり込んで、食わせてもらったりしながら求められるがままに関係を持って」
「は…それって浮気じゃん!? そんなに大好きなくせに彼女に対する罪悪感浮かばなかったの? 理性が働かなかったの?」
「あったよ。でも麻痺したみたいになるんだ…。わけわかんないだろ? だからといってそいつに激しい感情が湧き起こるわけでもない。ただの行為に過ぎなかった。だから…こんな歪んだ俺のそばにいたらあいつ、耐えられないだろうなって…不幸になるだけだって」
「確かに、それは否定しない。彼女のためにも遠距離で良かったし別れてよかったよ」

苛ついていた私はストレートに言葉を放つと、野島くんは自嘲気味に口角を上げた。

「こんな俺だから今を考えるのも、未来を考えるのも…怖かった」
「…こんな俺って?」
「今の俺、見たらわかるだろ?」
「今の俺が、どうして "今の俺" になったの?」
「子供の頃の感覚がフラッシュバックするんだ。祖父さんに木刀で叩かれて…両親は勉強ができて強くて立派で、どこに出ても恥ずかしくない野島家の長男であるようにって、そればっかで…。このやろう、なら強くなってやるよ、その代わり何もかもぶち壊してやる、って。それから時々、急に自分を取り巻くものをぶち壊したくなる。感情が昂れば昂るほど、壊したくなる」

ハッとした。
彼女への思いが、自身の過去が、言葉と同時に雫となって私の頬に零れ落ちた。

「それが…怖いんだ…」

破壊と恐怖。
まだ何においても無力な子供の頃。
野島くんは他者によって固められ、形成された。内部ではマグマが静かに激しく、その時を待っていた。
彼は被害者なのかもしれない。

「…まだ若かったからだよ。でも今の野島くんだったら大人になったし、ちゃんと仕事して稼いでるし力もあるし、冷静に考えられるでしょ?」
「俺は変われてないんだよ」
「だったらもう少し時間が経てば違う判断出来るよ」
「だからこの先も変わらないって言ってるだろ!」

そう叫んだ野島くんをひっぱたいてやりたい気持ちをグッと抑えて、彼の頬を挟み、涙を指で拭ってあげた。
彼は取り憑かれたようにまだ話を続ける。

「あいつの首から鎖骨にかけて何度もなぞっていると、この首を締めたら…俺しか見せない顔するんだよなって考え出すんだ。でも、冷たくなって動かなくなるのは嫌だった。そんなことを考え出して、俺の愛は歪んでいると自覚した。あいつが望むような普遍的な愛はないんだ。本当にぶち壊す前に、終わらせた。でも」
「…でも…?」
「…今でも夢に出てくる。あいつ、泣いてるんだ。どうしてあたしを置いて行っちゃうの? こんなに大好きなのにって。俺、あいつの首を絞めてるんだ。長い髪が揺れて俺の腕に絡んできて…ただでさえ白い肌が、見る見るうちに真っ白になって…。それであいつ、笑うんだ。あたしの最期の顔見れて嬉しい? これでずっとそばにいられるよって…」
「そんな…」
「夢には弟が出てくる事もある。俺が大学進学で家を出る時、弟はまだ小学2年生だった。発達障害のある弟は両親から疎まれていた。俺の元しか近寄らなかった。そんな弟でさえ、俺は家に置いて出てきた。だからあいつと同じように、お兄さん、僕を置いてくの? って。無表情で俺の顔じっと見てるんだ。その黒い目がブラックホールみたいに俺を飲み込む。
そういう夢を見ている時、たいてい自分の叫び声で目が覚める。汗だくになってさ。寝ている間もうなされているんだろう。だから寝る時は必ずひとりになりたい。そんな姿、誰にも見せたくない」

女の人の部屋に絶対泊まらない理由も、それなのか。

「そうやって俺を求めている人間を、俺は置き去りにしてきた。俺はあいつに付き合おうなんて言うべきじゃなかった。始めるべきじゃなかった。せめて高校卒業した時に、きっちり終わらせておけばまだマシだった。俺は逃げてるだけだ。臭いものに蓋をするご都合主義は俺自身だ。鳥籠を壊せなんて偉そうに言えた立場なんかじゃない」
「鳥籠…?」
「俺は一人でただ…避けて…逃げてるだけだ…何も解決出来ちゃいない」

逃げても逃げ切れない。故郷を離れてもそれはベッタリと彼の背中に張り付いている。
確かに今のままではどこに行こうと誰と過ごそうと、逃げ切ることは出来ない。

「野島くん…だったら一度里帰りするべきだと思う」

彼は溢れた涙目をギラリと見開かせた。

「逃げてもだめなら、飛び込むしかなくない?」

野島くんは身体を起こし、仁王のような表情になった。そんな彼の頭を引き寄せ、耳元で言った。

「ね、しよう」
「野口…」
「したら何かが変わるかもしれない。野島くんは何だかんだずっと、よくない状態で現況維持してきた。だから…」

今度は目を見て言う。

「しよう」

わかってる。野島くんのためじゃない。
今の私を満たすためだって。
でも、何かが変わるかも、とは思った。
良い方向にかどうかは、わからなかった。

野島くんは表情を強張らせたまま、私のシャツの下に手を滑り込ませた。私も同様に、Yシャツをズボンから引き出して手を入れる。
彼の身体は熱くて、腹には筋肉の隆起を微かに感じた。背中に手を回すと、滑らかな肌の感触があった。目で見なくても綺麗な身体をしているのだとわかる。

再び口づけを交わす。漏れる吐息と声にジリジリと炎が身体の奥を燻り出す。

しばらく互いに唇を弄り身体を撫で回したけれど、顔を離した野島くんの表情は強張ったままで、恍惚には程遠かった。

野島くんは「ごめん」と言って俯いた。
どうやら失敗だったみたいだ。

「ううん。私こそごめん、変なこと言って。大好きだった人のこと思い出したのに、それはないよね」

私は彼を抱き締めた。涙を見せたくなかったから。
私の腕の中で野島くんは何度も「ごめん」と謝った。いいんだよ、と彼の頭を撫で続けた。
やがて荒ぶっていた彼の呼吸も少しづつ落ち着きを取り戻し、規則正しくなる。

野島くんの髪にそっと指を梳き入れる。

「話してくれてありがとね。辛いこと思い出させてごめんね。でも…野島くんは自分で自分を縛っているその鎖を解かないといけないんだよ。そのためには一度故郷に行って向き合うしかないんじゃないかな。すぐじゃなくても」

野島くんは寝息を立てている。その髪を撫で、唇で触れた。地肌からたちこめる微かな汗の湿り気。

田舎の名家…木刀…学生時代の恋人…。
彼の複雑な心が形成されていくのを垣間見、やはりこの人は自分の弱さを知っている、強い人なんだと改めて思った。

強烈な過去を知れたのは喜びなのか、哀しみなのかはわからない。

同時に、彼の全てを受け止め、長い道を共に歩んでいけるかと問われたら、無理かもしれない、と思った。
"特別な存在" というのが、やはり最適なポジションなんだろう。
野島くんもわかっていてそう言ったのかもしれない。

でもそうしたらこの先、このまま行ったら野島くんは本当に誰も恋人にしないつもりなんだろうか。愛してしまったら、自ら壊す前に離れていくのだろうか。
それで野島くんは、どうなってしまうのだろう。

不意に、野島くんはある日突然、自らを壊してしまうのではないかと思った。彼を縛る鎖が自らの身体を縛り上げ、滅茶苦茶に破壊してしまうのを想像してしまい、急に怖くなった。
眠る彼を起こさないように、抱く腕に力を込めた。

スズメのさえずりが聞こえてくる。

まぶたの裏に明るさを感じ、朝だと認識しゆっくり目を開く。
身体が少し痛い。いつもより硬めの寝床だったからだろう。
部屋の灯りがいつの間にか消されており、朝日が部屋を明るくしている。

私が身体を動かすと、野島くんも目を覚ました。

「おはよ…」
「ん…俺、うなされてなかった?」
「大丈夫…だったと思う。私は気付かなかった。熟睡してただけかもしれないけど」

そう答えると力なく笑った。

「今日、仕事行く気分じゃないな。サボっちゃおうかな」
「じゃ俺も」
「え、野島くんも?」
「何だかすごく疲れた…」

そう言って野島くんは再び微睡むように目を伏せた。
疲れ…昨夜のせいか。

「昨夜、たくさん話してくれたせいかな。でももし野島くんがこの先誰かの事を好きになる事があったら、あの話は絶対にしないで」

彼はスッと目を開き私を見て

「重すぎるよな」

ボソッと呟く。

「そういう事よりも、好きになる人とは未来のこと話したらいいと思う。学生時代の彼女の事は、一生野島くんの胸に秘めておけばいい。それを聞いても、新しい恋人になる人にはほとんど意味がない」
「お前はそう思ったのか。意味がないと」
「私は…私は知りたかったから。どうして今の野島くんがいるのか。全部知りたいと思ったから。自分で望んだから、話してくれて嬉しかった。でもね、女性の存在を赤裸々に聞くと…たとえ過去の事でもやっぱりキツイから…」

野島くんは少し不貞腐れたような顔をした。

「…全てを語る必要はないって思ったの。何だかんだ女の人って嫉妬深いところあるし、引きずると思うんだよね。だったらいっそのこと、何も知らなくていいと思った。訊かれても話す必要ない。俺たちのこれからの事考えよって、言ってあげたらいいと思う」
「…この先誰かを好きになる事が想像出来ないけど」
「野島くんもさ、彼女の事、少しづつしっかり閉じ込めていったらいいよ」
「閉じ込める?」
「よりを戻せないなら、過去の事にして、心の別の部屋にしまう他ないよ。思い出にするっていうのかな。でないと野島くん、いつまでも縛られたまま、がんじがらめで動けない」
「…」
「朝からこんな話してごめん」
「…疲れた」

そう言って野島くんは目を閉じた。
私は自信がなかった。偉そうな事たくさん言って、野島くんに対して何の慰めにもなっていないのではないかと。

しばらくそのままどうすることもできず朝日の透ける遮光カーテンを、無情な思いで眺めた。

不意に目を閉じたまま、野島くんが私を呼んだ。

「…野口」
「なに?」
「…思い出にするの、手伝ってくれ」
「えっ?」
「今の俺には野口が必要だ」

思いもかけない言葉に身体が一瞬で熱くなった。

「誰かとの上辺だけのセックスに依存したくない。愛する誰かをぶち壊すことなんて、したくない…」
「野島くん…」

そして野島くんは腕を伸ばし私を抱き寄せ、耳元で呻くような声で言った。

「俺の鎖を解いてくれ…俺を鳥籠から…出してくれ…」

野島くんが初めて、前を向いた。胸が震える。

「わかった。任せて。大丈夫だよ。私は野島くんを壊させない」

本当は不安で一杯だけれど、気丈なふりをして答えた。


朝日が高くなり、遮光カーテン越しでも部屋の中が一層明るくなった。

同時に聞こえて来た、男の人の大きな声。日本語じゃない…?

「アザーンだよ。ジャーミィから流れてくるんだ。祈りの時間を知らせるアナウンスだ」

野島くんが目を閉じたまま教えてくれた。
まるで、祈りに目を伏せているかのような。

「うちはアザーンが時を告げてくれる…鳩時計よりだいぶマシだよな…」

更に消え入るような声で、独り言のようにそう呟いた。

強い光。祈りの声。

強いあなたなら絶対に鎖をちぎることが出来る。
鳥籠なんて、きっとすぐに抜け出せる。大丈夫。
自分自身に言い聞かせるように。

野島くんの手を握り、私も目を閉じる。







END

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