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【短編小説】雨の日に傘を閉じて・前編

“久しぶりにしっかり降ってるな…”

タクシーの窓ガラスを伝う雨の雫を見て思う。

最近の都心の雨は梅雨時であっても気づくと傘を畳んでいたり、あるいは真夏のように局地的にザッと降ってカラッと上がってしまう事が多いが、この日は朝から足元で雨が跳ね返るほどの強い降りが続いていた。

沿道には紫陽花が鮮やかに咲き乱れている。子供の頃習ったリトマス試験紙を思い出す。酸性が青、アルカリ性が紫。
しかし最近の紫陽花は子供の頃に見たそれよりも、もっと色鮮やかになっている気がする。真っ青だって、真っ白なものだってある。

不思議なものだな。紫陽花ってこんなにも目を奪うものだったか。

色彩感覚が発達している娘の影響か。彼女はまだ小さいくせに驚くような色使いで絵を描く。俺もそれに感化されているのかもしれない。

見上げると、対象的なグレイのオフィス街。
街路樹の緑はこの雨に打たれて歓びを感じているかのように艶やかに輝き、その下を鬱陶しそうに傘を差したビジネスマンが足早に行き交っている。

そうか、この色のバランス。それが東京だよな。

俺は雨が好きだ。このぼんやりとした憂鬱さを含めて。
目覚めた時に雨の音が聞こえてくると心が鎮まる。きっと俺は雨の日に生まれたのだろう。そんな話は聞いたことはないが。

娘は雨上がりの匂いが好きだと言ったが、俺はそれよりも降っている最中の匂いの方が好きだ。

以前住んだことのあるベルリンも、基本的には天気の悪い日が多い。それはそれで人格形成上はよろしくないかもしれないが、俺にとっては居心地の良い街だった。

タクシーは環状2号線、通称マッカーサー道路を右に折れ、鋼鉄の巨人が群れ立ち並ぶエリアに入って行く。

「そこで降ろしてくれ」

車を降りると、傘を開く。
エントランスまでの僅かな距離でも強い雨がスーツの裾を濡らす。何とか建物内に駆け込むと内部からひんやりと乾いた空気に思わず肩を竦めた。
傘の雫を払い、来客用IDカード受け取ってエレベーターホールへ向かった。

取引先のオフィスはこの真新しいシンボリックなビルの32階にある。エレベーターはガラス張り。みるみるうちに小さくなる地上、そこへ空から雨が落ちていく。

今日が初回の打ち合わせだ。国内大手の深山グループが設立したまだ若い会社だが、勢いがあり売上もどんどん伸ばしている。

俺自身も起業をしてから大きな契約となるのは今回が初めてと言っていい。それもこれもサラリーマン時代に縁のあった深山グループの御曹司、深山仁のお陰だ。俺の営業力というよりは、彼の顔だ。

退職して会社を興した案内を過去に取引のあった企業や個人に送ると、深山仁はすぐに連絡を寄越してきた。ぜひまた一緒に仕事がしたい、と。
深山グループ本体は日本有数の大企業だが、社内のプロジェクトがそのまま別会社を設立したり、そういった会社がベンチャーと手を組んだりと柔軟な企業体制を持っている。

エレベーターのドアが開くと、右手の一角がオフィスとなっている。受付で名乗ると、すぐに深山本人が出迎えるので少しお待ちください、と言う。彼はここの社長でもないのに、わざわざ出迎えてくれる、というわけだ。

「良い傘をお持ちなんですね」

待つ間、受付の女性はそう声を掛けてきた。若そうだが目は肥えているな、と思う。

確かにこの傘のハンドルはヒッコリー(胡桃)で出来ていて、ロンドンの高級傘だと聞いている。

「実はこの傘の良さをよくわかっていないんです。戴き物で」
「えぇ、素敵じゃないですか。こんな粋なプレゼントをしてくれる方がいらっしゃるなんて、さすが野島さんですね」

プレゼント。そんな大それたものではない。どちらかというと "無理やり持たされた" に近い。誰のものなのかが怪しいと思っていたくらいだ。

そして "さすが野島さん" とは。初対面ではないのか、彼女とは。

彼女は「傘立てだと誰かが間違って持って行ってもいけないですから、バックヤードでお預かりしておきますね」と言った。素直に傘を渡した。

「野島さん! お待たせしました。こちらへどうぞ」

相変わらず深山仁は爽やかで屈託のない男だ。握手を交わし、フロアの奥の応接室に通される。

高層階の窓の外は明るい灰色の空が広がり、雨の雫が窓を飾っている。俺は絵画や美術には全く疎いが、こうした "都市まちが見せてくれる一枚の絵" は好きだ。


***


男は小物に気を遣え、と教えたのは、俺が新卒で入社した会社の当時の上司、部長だ。後に社長になった、変わった男だった。おかげで俺は好き勝手やらせてもらったのだが。

学生時代は親からの仕送りを拒んでいたため、とにかく金がなかった。『足元を見られる』という話から就活では靴だけはそこそこのものを用意したが、それ以外は安物を使っていた。社会人になってからもしばらくは当然金もなく、贅沢品など持てなかった。

そんな部長は配属された俺を見て、哀れんだ目を向けた。

「野島、お前、男前の面下げてしょっぼい身なりだな」
「単純に金が無いんすよ」
「財布、出してみろ」

俺は渋々、尻ポケットから財布を出す。中身を確認されるのかと思ったら違った。財布を見るなり部長は呆れた顔を向ける。

「女も貢いでくれないのか」
「そんなのいませんよ」

仏頂面で答えた俺にハン、と彼は小馬鹿にしたように笑う。

「野島、男は持ち物で決まる。初任給とボーナスで、財布と鞄買い替えろ」
「それ業務命令ですか。言うからにはそれなりの額出してくださいね」
「初任給に色なんか付けねぇぞ。それよりお前、稼ぐ気満々なんだろ。入社式でのスピーチ、最高だったよな。"いずれ会社を乗っ取ります" なんて、社長がビビってたぞ。誰だあんな奴入れたのは、って。いやいや、最終面接はお前がやったんだろうって、内心笑いが止まらなかったけどな」
「本気で考えてますから」
「俺はお前のそういうところに一目惚れして、俺の部署に寄越せって言ったんだ。お前の頭の中見てみたくてな。ここに来たからにはきっちり働いてもらうからな。俺が望むパフォーマンスを必ず出せよ」
「その低い望みの数十倍上を出しますよ」
「お前、本っ当に生意気だな。腹立つのを通り越して愉快になってくるわ」

ハハハハ、と部長は豪快に笑った。

俺は無事(?)初任給で財布を、ボーナスで鞄と靴とスーツを新調した。どんなものを買ったらいいか部長に相談すると、彼は嬉しそうにあれこれアドバイスをくれた。

この部長は部下を連れてよく高級な店に連れて行ってくれた。目を利かせ舌も肥やし深みのある人間になれ、という意味だ。酒もだいぶ鍛えられた。典型的昭和の男である。

「野島、どんなにモテても女からもらった物を身に付けるんじゃないぞ」
「入社当時、貢いでくれる女もいないのかって、俺のことバカにしてたじゃないですか。矛盾してますよ」
「お前、そういうところは頭悪いな。そういうものをステータスにするんじゃないってことを言ってるんだ」
「部長はステータスにこだわるんですね」
「大事なことだぞ」

部長は顔を近づけて言った。

「人ってのはな、魅力に惹かれて近づいてくるんだ。安々と手に入るものでもダメだし、成金が持つようなジャラついたものもだめ。少し無理して頑張れば手に入る。その絶妙さと、あとはひんだ。お前はそういう素材を活かす容姿も要素も持ってるからな」
「見掛け倒しにさせるってことですか」
「まぁそれでもいい。どの道お前はありのままの自分をさらけ出すタイプじゃないんだから。鎧だけでも立派にしておけ」


しばらくして、その男が社長になった。なってすぐに言った言葉が『俺がお前に会社を乗っ取られるのか』だった。

もちろんだ、と答えた。彼はまた豪快に笑った。






後編へ続く(翌日公開)



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